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密鋳銭

名称ヨミミッチュウセン
時代江戸時代
解説洋野町立種市歴史民俗資料館にて展示されている密鋳銭。

文政二年(一八一九)五月二十九日に上館の山守たちが呼び出しを受けている。密かに鉄銭を造った容疑及びその情報収集のためであったようである。
七月三日には詮議係に目付の大関文弥、町奉行の日沢登、勘定頭の波々伯部伝、物書接待五蔵、徒目付長牛治太夫が任命された。
その結果、九月四日に三人が田地屋敷家財闕所の上、市川境へ追放、一人が野田境へ追放の処分を受けた。そして、新たに六人の容疑者が引付けを受け、十日には入牢を命ぜられている。
江戸時代中期を過ぎると国内の経済活動は活発になったため、庶民が使用する銭貨(銅貨)が不足するようになった。そのため幕府は、元文四年(一七三九)に江戸や石巻などの銭座で鉄製の銭貨、寛永通宝一文銭を造った。この結果、悪貨は良貨を駆逐するという、グレシャムの法則のとおりに鉄貨は銅貨を駆逐し、銭貨の主流となった。
仙台藩は天明の飢饉の時、飢饉の救済と困窮する藩財政を再建するため、幕府の許可を得て、領内だけ通用の仙台通宝一文銭を天明四年(一七八四)から造り、五年間で四億枚も造ったという。仙台通宝は銅銭を混ぜ、他領にも流れたので反感を買った。
この鉄銭造りにこの地方の人たちが出稼ぎに行き、その技術を種銭を持ち帰った。そして、足跡から蜜造場が露見しないよう、小川や沢を歩いて山奥に入り、密かに贋金(密鋳銭)を造り、塩の運搬に見せかけて、牛の背に乗せて運び、食料や生活物資と交換したという。
江戸時代銭、銭貨の密造は死罪が原則であった。しかし、八戸藩は一般に密造銭造りにたいする刑罰は軽かった。それは八戸藩が僻遠の地にあるため、領内に正銭が十分に行き渡らなかったことから、密鋳銭がなければ藩内の経済が混乱するため、黙認しなければならなかったためであろう。
そのためか、文政五年二月二十二日に「密銭の使用を禁止しているのに使用している者がいる。藩士の中にも禁止令を軽く見て使用している者がいるようだが、使用禁止とし、それぞれの家来たちにも厳しく申し渡すように」と藩の日記にあるように、藩士でさえも罪悪感をあまり抱いていなかったことを窺うことができる。
こういう状態であったことから、豊作でも年貢などに収奪され、飢餓に備えて備蓄することはおろか、その日の食料さえ手に入れることが容易でなかったこの地方の人々は、やむを得ず密銭を造ったのである。

(大野村誌第二巻 史料編1 歴史の残映から 史料で知るムラの姿)より
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地域大町
資料ID210ORS_00056

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