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鍛冶道具

名称ヨミカジドウグ
時代昭和(戦前)
解説種市歴史民俗資料館に展示されている鍛冶道具。

鍛冶屋とは主に鉄製品を扱って、刃物や工具類、農具などを製造して修理をしている。
九戸地方には、大野周辺の九戸地方には原料の砂鉄と燃料となる木炭用の木材が豊富にあったため、古くから鉄を生産していたようだ。特に、江戸時代中期から末期にかけて、この地方の製鉄業は出雲地方(島根県)と並び日本の二大産地として、八戸藩の財政を支えるほど栄え、南部の鉄は寛政年間(1789~1800)に江戸市場を制覇したこともあったといわれている。
当時の製鉄法は「たたら製鉄」と言い、粘土で造った低炉に三日三晩砂鉄と木炭を交互に投入し、フイゴで風を送り木炭を燃やし砂鉄を溶かして採取した。溶けた鉄の一部は炉の下にある湯口からも出てくるが、大部分は炉の内に残るため操業が終わるたびに炉をこわして取り出した。
この砂鉄で生産された鉄は、種市の玉川海岸から船で積み出されもしたが、主に八木港から積み出された。このように多量の鉄が生産され、この地域へ及ぼす経済的波及効果は大きかったが、公害も発生しており、寛政9年(1797)7月10日の八戸藩の日記に「大谷で砂鉄を水で洗い流して採取するため、土砂が玉川海岸に流れ海水が濁り、アワビや海藻を採ることができなくなったので、その税金を軽くしてください」と藩に願い出ている。
しかし、このように隆盛を誇ったこの地方の鉄山も、安政4年(1857)に南部藩士の大島高任が釜石に西洋式高炉を完成させ、この高炉が明治に入ってから普及したため、この地方の製鉄業は明治になって衰退し、明治末期から大正にかけて消滅。大谷地区には「たたら」の地名と炉があった場所に建立されたといわれている、この金山神社が面影を残すのみとなってしまった。

(種市町のむかし探訪)より
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地域大町
資料ID210ORS_00044

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