大日霊神社にまつられている献額の一部

名称ヨミオオヒルメジンジャレイニマツラレテイルケンガクノイチブ
時代江戸時代
解説献額の一部。こちらの俳諧献額は、文政八年に奉納された献額である。奉納されたのは明戸地区の大日霊神社であると思われる。
言い伝えでは、明戸の豪農堀米重三郎は、自らの屋敷に巨岩を配した池を造り、そこに建てた釣殿で江戸などから歌人を招き俳諧を開いたと言われている。その歌会が開かれたときのものかどうかは、定かではないが、大野の当時の文化を知る上で貴重な資料である。
この献額にも、八戸藩領のほか、江戸、房州(千葉県南部)花巻、宮古、紫波などの歌人から句を集めている。願主は白枝、一水、昇一である。一水、昇一は不明であるが、白枝は三代目晴山吉三郎こと晴山清助である。
平成27年6月29日洋野町指定有形文化財に指定された。

※漢字が正常に表示されないため大日霊神社(おおひるめじんじゃ)としておりますが、【霊】の正しくは雨かんむりに口3つ、下に女となります。

大日霊神社(おおひるめじんじゃ)は洋野町大野の明戸地内、地区の人々が「向かい山」と呼び親しんでいる山の山頂付近にお社がある。江戸後期、大野を代表する豪農堀米家の保護を受け、明治四年(一八七一)三月当時の堀米家当主によって民有地二〇五坪を納めて国家管理の神社となった。
 祭神は天照大御神である。ほかに坂上田村麻呂を祀(まつ)っており、田村麻呂が使ったといわれる槍(やり)があったとも伝えられている。また、本堂の中に金色の観音像も祀られている。
 この観音像は昭和の初期、売り払われてしまったのだが、ある夏の夜に蛍とりをしていた子供が、蛍とは別の光ものが飛んでいくのを見た。間もなく大日霊神社の方から大きな音がした。その音を聞いた近所の老人が、誰か神社で悪戯をしていると思い、翌朝行ってみると、お堂の後ろに穴が開いていて、お堂を開けて見たところ売り払われていたはずの観音像が戻っていたという言い伝えがある。祭日の八月十五日には、地区を挙げて農作や地区の安全、家内安全を祈願し、おおの駒踊りの奉納舞などが行われる。
 最も古い陳列は延享元年(一七四四)のもので「奉建立一ノ宮権現宮御武運長久村里繁昌祈所」とあり、施主は甚内という人物である。どうやら以前は「一ノ宮権現宮」と呼ばれていたようだ。文政七年(一八二四)の棟札に「大日霊神社 建設者 堀米重三郎様…」とあるので、堀米氏が神社を改築したあたりから、大日霊神社と名称が変更されたと思われる。
 文政八年(一八二五)と同九年(一八二六)にはそれぞれ、大野をはじめ久慈・八戸・盛岡・花巻・房州・江戸などの俳人が句を連ねた俳諧献額が奉納されている。この献額は平成二十七年に洋野町の有形文化財に指定された。また海難除けの千石船の絵馬や、天保十五年(一八四四)には、獣害除けの猪退治の絵馬なども奉納されており、この地域の信仰の中心であった。

(北三陸の歴史探訪~久慈・九戸地方の風土と人物~)より
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地域明戸・上明戸・下明戸
資料ID006OS00020

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