海水浴場としても利用された昭和30年代前半の種市漁港

名称ヨミカイスイヨクジョウトシテモリヨウサレタショウワ30ネンダイゼンハンノタネイチギョコウ
時代昭和(戦後)
解説戦争によって工事中止
昭和27年第一種に指定
昭和11年(1936)からの船留船揚場設備補助によって、同年は北防波堤310メートルを25,600円で造った。この年の、中野村の年間予算は21,749円であった。
昭和13年には、甲種防波堤30メートル、乙種防波堤25メートル、防波壁53メートル、防砂堤80メートル、しゅんせつマイナス1メートルで5,580立方メートルの工事を5万円で実施した。そして、昭和15年に南防波堤180メートルを建設したが、太平洋戦争が始まったため、工事を途中で中止したことと、種市漁港のある横手地先は、地形的に直接外洋に面し、海砂の移動が激しかったことなどから、戦前の港湾設備の技術力では困難をきわめ、漁港としての機能を十分に発揮するには至らなかった。
そして、昭和20年8月15日の日本の降伏により、それまで戦争で工事が中止され、廃墟となっていた種市漁港を復旧し、八木港と並ぶ種市の漁業の拠点とする構想を作ったが、当時は敗戦後の混乱した状態にあり、国は東京から大阪にかけた地域を優先とする工業立国政策を計画していたことから、辺境の地にあり日本のチベットと蔑視されていた、この地方の漁港整備に財政的援助をする余裕は国になかった。
それでも、当時の舘石基治町長や横手浦漁業組合長などは、機会あるごとに陳情を重ね昭和26年(1951)7月10日の漁業法の制定にともない、翌27年に「その利用範囲が地元の漁業を主とするもの」という第一種漁港に指定された。
そして、昭和28年に台風被害により破壊されたということで、同港を災害復旧工事として、応急処置の修築に取りかかった。
それと同時に、各種調査を昭和31年まで実施し、その調査結果を基礎データとして、国や県などに陳情した結果、翌32年に修築漁港に指定され、県に移管される昭和38年度まで町営工事として実施された。
その築港の工法は、久慈港と同じような掘り込み式であったが、種市漁港の予定地の地質が岩盤であったため、久慈港のようにしゅんせつによる方法を採ることができなかったので、港口を締め切ってブルドーザーで掘り下げるドライワーク方式が採用された。
サイズ
地域一区・二区・三区・四区
資料ID101TS00050

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