小子内の清光館の石碑

名称ヨミオコナイノセイコウカンノセキヒ
時代昭和(戦後)
解説人生はかなさを刻む 柳田国男が紹介、有名に
 日本民俗学の祖として有名な柳田国男が大正9年(1920)、貴族院書記長を辞め、新聞社の客員となり取材のため三陸海岸を徒歩で北上。小子内に入り「疲れた。もう泊まろうではないか」と言って小子内に一軒しかなかった清光館という小さな旅館に泊まったのが旧暦の8月15日であった。
 そして、八戸線が八木まで開通した大正14年、八戸まで来た柳田国男は再び清光館を訪れたが、既に没落していたのを目の当たりにし、人生の無情を感じて書いたのが「清光館哀史」である。
 そしてこの「清光館哀史」は「雪国の春」という単行本におさめられ紹介されるとともに高校の国語の教科書にも取り上げられたこともあって一躍有名になり、今でも柳田ファンが訪れるコースとなっている。
 そして、この地を訪れた人たちは、この石碑に刻まれてある「其家がもう影も形も無く、石垣ばかりになって居るのである。石垣の蔭には若干の古材木がごちゃごちゃと寄せかけてある。真黒けに煤けて居るのを見ると多分我々三人の旅人の遺跡のか破片であろう。幾らあればかりの小家でも、よくまあ建って居たなと思うほどの小さな地面で、片隅には三本の玉蜀黍が秋風にそよぎ、残りも畠となって一面の南瓜の花盛りである。
 何して居るのか不審して、村の人がそちこちから、何気無い様子をして吟味にやって来る。浦島の子の昔の心持の、至って小さなようなものが、腹の底から込み上げて来て、一人ならば泣きたいようであった」この文面に接し、柳田国男のやるせない心情を思い、人生のはかなさを胸に刻みこむのである。
サイズ
地域小子内
資料ID101TS00160

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