伊勢の海親方の還暦祝いで鏡山親方(元横綱柏戸)と兄剛一氏
| 名称ヨミ | イセノウミオヤカタノカンレキイワイデカガミヤマオヤカタ(モトヨコヅナカシワド)トアニゴウイチシ |
|---|---|
| 時代 | 昭和(戦後) |
| 解説 | 理事長らの片腕として協会運営に手腕を発揮 入門した富樫を伊勢ノ海親方は、英才教育をしたという。富樫が幕下時代に伊勢ノ海は早くも大関まで楽に行けると思い、それまで時津風部屋のけいこ場を借りていたmのを、富樫に十分にけいこをさせるため昭和31年に借金してけいこ場を造ったという。 伊勢ノ海は、富樫の体質を見て、前みつを取り一気に押し出る速攻相撲を厳しく指導したという。また、富樫を大成させるため横綱若乃花の胸を借りることを思い立ち、両国から遠く離れた阿佐谷の花籠部屋までけいこに通ったという。 これは、当時としては画期的なことであり、伊勢ノ海の富樫に対する期待の大きさを物語っており、この阿佐谷通いは、当時大きな話題となり、角界における出げいこの始まりともいわれている。 この結果、富樫は順調に出世し、昭和32年11月十両、33年9月入幕し、翌34年春場所において11代柏戸を襲名する。そして、剛の柏戸に柔の大鵬、直線相撲の柏戸に対し曲線相撲の大鵬などと称され、角界の人気を二分するようになっていく。 柏戸は腰が高い。だからうっちゃりを食うという批判に対し、伊勢ノ海は「弟子の相撲は師匠の私が一番よく知っている。柏戸の身上はの出足一本、あれをとったら何もない。腰をおとせばうっちゃりを食わないかもしれないが、そのかわり肝心の出足が死んでしまう」といって反論したという。 その結果、昭和35年7月場所に大関となり、昭和36年9月場所に大鵬とともに、横綱に昇進し、47代横綱柏戸となる。 戦後の混乱の続く時代に部屋を興し、食糧難にあえぎながら弟子の育成にあたり、念願の横綱を出し、ここにその苦労が報われたかに見えた伊勢ノ海であったが、横綱になった柏戸はケガと病気(糖尿病)に悩まされた。 柏戸は、途中休場を含め38年初場所から名古屋場所まで連続休場、そして39年夏場所から40年春場所まで6場所も休場する。 この事態に伊勢ノ海は、報道陣を前にして涙ながらおわびし、必ず再起させるから柏戸のために時間を与えてほしいと訴えた。こうしたこともあってか柏戸は休場の多い割りに非難が少なかったという。 そのかいもあって38年秋場所、全勝の大鵬と柏戸は決戦し、柏戸が勝ち15勝全勝で優勝し奇跡のカムバックをなしとげる。 伊勢ノ海親方は、このほか現伊勢ノ海の関脇藤ノ川なども育成する。また、出世できなかった力士たちのめんどうをよく見たという。そのためか、伊勢ノ海の還暦祝いには全国各地から部屋出身の者が集まってきたという。 伊勢ノ海は、一方でNHKの相撲解説者として知られたほか、検査役、協会の監事から理事となり、現役時代に一門の大将であった時津風(双葉山)理事長らの片腕として、協会運営に手腕を発揮した。特に大相撲のソ連・中国・メキシコにおける外国公演の成功は、伊勢ノ海の尽力によるものと高く評価された。 ヘビースモーカーであった伊勢ノ海は相撲協会引退後の昭和57年12月11日肺がんのため64歳で没す。 |
| サイズ | |
| 地域 | 一区・二区・三区・四区 |
| 資料ID | 101TS00159 |


