昭和8年の三陸津波で橋が流される前の窓岩
名称ヨミ | ショウワ8ネンノサンリクツナミデハシガナガサレルマエノマドイワ |
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時代 | 昭和(戦前) |
解説 | 観光地としてにぎわう いまは面影を残すだけ 昔、窓岩といえば、玉川海岸にあったものを指していたが、玉川の窓岩は史上最大規模といわれる明治29年(1896)の大津波で壊れてしまったため、今では窓岩といえば鹿糠にあるものを指すようになった。 鹿糠の窓岩は、昔は写真のような橋が架かり、多くの人たちが遊覧のため訪れる観光地であった。この橋は、いつごろ架けられたか不明だが、鹿糠の浜にはマーゲという岩があり、防波堤の役目を果たしたため、船が停泊するには格好の天然の港であった。このため、鹿糠は多くの船が来航する港町として栄え、郵便局・警察・盛岡銀行・八戸銀行や料理店・旅館等が並び、市日もあってたいへんにぎわっていた。 このように、多くの人々が商売などで訪れ宿泊客も多かったが、観光で訪れる人は少なかった。そこで、窓岩を観光の目玉にしようと考え、窓岩の近くの高台にあずま屋を建て、写真のように橋を架け二見橋と名付けたところ、たくさんの人が遊びに訪れたという。 しかし、この橋は昭和8年(1933)3月3日の大津波で流され、現在では写真でしかみることができなくなってしまった。その上八木漁港と種市漁港が整備され大正13年には鉄道が種市まで開通し、現在地に種市駅ができたため、鹿糠の港は使用されなくなった。 この窓岩のところに「ウズコ穴」という横穴があり、昔は八戸穴ともいって、八戸まで通じていると信じられていた。また、ここから西に10数キロも離れた二ツ森に「ドンコ穴」という穴があるといわれているが、そこにこのウズコ穴が通じているといわれている。そのため、このドンコ穴にはワカメやコンブが生い茂り、カゼやアワビがたくさんとれた。また、ドンコという魚がいて、それがだんだん大きくなり、やがてこのウズコ穴から出てクジラになったと、昔の子供たちは本気で信じていたともいう。 満潮になるとこのウズコ穴の奥まで海水が入っていくため、奥まで入る者はなかったが、子供たちは穴をのぞいたりして遊んだものである。現在では温暖化や漁港ができた関係のためか潮流が変わり、砂や石で埋まり、わずかに入り口にその面影を残すのみであり、子供たちの冒険心もそそらない所となってしまった。 |
サイズ | |
地域 | 戸類家・玉川 |
資料ID | 101TS00109 |