玉川の熊野神社

名称ヨミタマカワノクマノジンジャ
時代昭和(戦後)
解説江戸時代初期以前すでにあった玉川の神社
 種市における熊野神社の創建は、中野は寛政9年(1797)であると伝えられている。
 宿戸は天正元年(1573)である伝えるが、元和8年(1622)であるともいいます。
 八戸市立図書館所蔵の宝暦9年(1759)の『八戸廻神社書上』には、「熊野堂、宿戸平三郎 鰐口はあるが棟札と縁起はない」とあり、宝暦のころは平三郎という人が代表者であったようである。
 なお、鰐口とは、神社などの正面軒下につるされてある、円形で横に長い口があり、内が空洞になっている金属製の音響具で、現在の鈴と同じ役目を果たすものである。また、棟札とは、神社のできた年月日や建築者などを書いた板である。
 玉川の神社の創建は不明であるが、『八戸廻神社書上』には「熊野白山 玉川三郎兵衛 御神体の鐘金は二枚 御尊体は四体あり、鰐口もあり、宝永八年初冬と刻まれ、棟札はない」とあり、江戸時代初期の延宝8年(1680)に鰐口が奉納されたと思われることから、神社は江戸時代初期以前にあったものと思われる。
 なお、鐘金とは、懸仏を指しているものと思われる。
 懸仏とは、御正体とも称し、神仏習合の考え方から生じたものであり、円形の鉄や銅などの板に、神仏の像を付けたりしたもので、江戸時代までは神社などに奉納されてあったが、明治初期の神仏分離令により、ほとんどの懸仏は取り除かれてしまった。
 また、城内の東長寺の境内にある熊野神社は、『八戸廻神社書上』によると「熊野林 城内千助 御神体は三社いりの鐘金 縁起はなく、棟札には享年五年とあり、鰐口には土州田浦八三郎と刻まれている」とあり、享和5年(1720)が創建のようである。
 そして、この神社は宝暦13年に東長寺が焼けた際に一緒に焼けたらしく、旧家古文書に「堂を建立、その時は安永五年四月十五日」とあり、安永5年(1776)に竹林専輔や小林義房などの尽力と東長寺五世寂光天霊大和尚の魂入れ供養によって再建されたと伝えている。
 また、和座の旧家に伝えられている八龍権現は、山伏が伝えたといわれ、熊野権現・出羽権現と一つの木で刻んだ三大権現の一つであるといわれている。
 このように、熊野信仰は種市でも広く信仰されたようである。
サイズ
地域戸類家・玉川
資料ID101TS00097

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