嘉永4年建立の横手の二十三夜塔

名称ヨミカエイ4ネンケンリツノヨコテノニジュウサンヤトウ
時代江戸時代
解説月に対する特殊な思い
大野村晴山日記に記述
 種市にある二十三夜塔は全部、江戸時代後期の建立だが、この二十三夜信仰は戦前までは講をつくり一般的に行われていたようで、古老の話によると、二十三日の夜集まる人たちは、身を清め精進料理を持ちよってお神酒をくみ交わしながら月の出を待って、その年の豊凶を占うとともに無病息災・家内安全なども祈ったものといわれている。
 その状況が『九戸地方史』の天保2年(1831)の大野村晴山日記にあり、それは「卯の年の正月23日、夜お月様は雲がかかり見えなかったが、そのうちに見えるようになった。見たらそれほど勢いもなく小雪が少々ふた。今年は大凶作であった卯年より4廻りの49年目にあたるのでたいへんよくお月様を拝んだ…」とあり、この地方の人々の二十三夜の月に対する気持ちが特殊なものであったことがうかがえる。
 では、なぜ十五夜や十八夜などではなく二十三夜でなければならないかということは今のところ分かっていない。
 しかし近年二十三夜の月の出と作物の収量を比較した結果、関連があるのではないかということが元岡山大学の研究により分かってきた。それは、簡単に言うと、月の運動により地球の自転や太陽の影響が多少加わるが、そのほとんどは月の周期的法則により地球の状態に変化が起こるためではないかということである。そのため、50年に1回とかというように周期的に豊作や凶作が来るのだろうと推測されている。
サイズ
地域横手
資料ID101TS00093

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