名馬の里、種市町のシンボリ牧場

名称ヨミメイバノサト、タネイチマチノシンボリボクジョウ
時代昭和(戦後)
解説高度経済成長期を境に
名馬産地も衰退の道へ
明治になっても南部馬の名声は衰えず、特に明治5年(1872)に三本木(現在の十和田市)で生まれ、赤沢村(現在の紫波町)で飼育された盛号は、南部馬の最後の名馬であったといわれている。盛号は上野不忍池畔で開催された競馬大会で明治18、19年連続優勝するという快挙を成し遂げている。
しかし、明治37年の日露戦争の時に、日本の秋山騎兵団とロシアのコサック騎兵団が衝突したが、その際に体長で約20センチ劣る日本の馬に乗った秋山騎兵団は問題にならなかったという。
このため、政府は馬政三十カ年計画を策定し、外国産の優秀な馬を導入し改良に着手した。馬産地であったこの地方もこれら軍馬の供給基地として多くの優秀な軍馬を出したが、特に有名だった馬は、昭和8年に軽米で生まれた勝山号で、勝山号は中国大陸で4人の部隊長のもとで活躍し、軍人の功績と同じように、軍馬に与えられた甲功章の第一号を受けたという。
昭和30年代後半から40年代の高度経済成長期を境として、日本は自給農業から商品生産農業へ転換するという大きな流れに沿って、この地方も耕運機・トラクターや化学肥料などが普及した。その結果、必然的に馬は必要なくなり、その存在意義を失い、現在では競馬用などわずかに飼育されているにすぎなくなった。
サイズ
地域麦沢
資料ID101TS00083

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