馬の歯の化石

名称ヨミウマノハノカセキ
時代新生代
解説同居、家族同様大切に
数多くの名馬を産出
岩手県は、昔から馬産地として知られ、藤原氏が築いた平泉文化は馬と金によったものといわれている。
一般においても自動車、トラクターなどが普及するまでは、輸送や農耕などさまざまな労働力として、人々を助けてきた。このため、この地方の人々は、馬を人間が住む家に同居させ、家族同様に大切にしてきた。
日本列島に馬が現れたのは、洪積世後期のウルム氷期(五万年~一万年前)に陸続きのカラフトを経由して大陸から、ヘラジカ・マンモス・野牛などとともに来たものと考えられており、大船渡市の地ノ森層から化石が発見され、当町でも八木浜で発見している。
しかし、氷期が終わり気候が温暖化し水面が上昇したことにより、日本列島は大陸から離れたため、これらの環境の変化に適応できなかった馬やマンモスなどは絶滅してしまう。
その後、縄文時代後半(約三千年前)の千葉県の銚子市の余山貝塚などから馬の骨が発見されていることから、このころに沿海州方面や朝鮮半島経由で、馬が日本列島に入ってきたものと考えられる。
弥生時代になると西日本をちゅうしんとする遺跡から馬の骨が出土し、古墳時代には東北地方からも農具などが出土し、岩手県では江釣子村から八世紀ごろのものと考えられている轡などが出土している。
また、八世紀ごろに築かれたと考えられている、八戸の鹿島沢古墳群からも馬具が出土している。
東北地方における馬に関する記録では、「続日本紀」の養老2年(718)のところに「出羽と渡嶋の蝦夷87人が来て馬千疋を貢いだ」とある。
そして、その後、この地方に馬の飼育に適した広大な土地があったことから、しだいに馬の放牧が盛んになり、多くの名馬を産出するようになる。
サイズ
地域一区・二区・三区・四区
資料ID101TS00078

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