フノリ石を馬で運び投石しているところ

名称ヨミフノリイシヲウマデハコビトウセキシテイルトコロ
時代昭和(戦後)
解説投石事業に国の補助金
一時は生産量県一誇る
戦後になってもフノリの需要は多くあった。国では昭和27年(1952)度から「浅海増殖開発事業」にフノリ石の投石事業も認め補助金を出すようにしたため、各漁業では競って投石した。
小子内では、ヨバリ石があるあたりの石を石屋に切ってもらい組合員に運ぶ石の数を割りあてて運ばせ、この石を人間が冬期間ソリに積んで浜スカまで運んだ。馬を使うと邪魔にされて歓迎されなかったという。浜スカまで運んだ石を潮が最も引き、寒くも熱くもない旧暦の3月ごろ、組合の指示により組合員が共同で投石したという。
この投石は主に女が四人一組となり、最初はフジツルでつくったモッコのようなものに入れて運んだが、ツルが切れて足をケガする者が出たため、後にはチェーン(鎖)で運ぶようになったという。
フノリは割り石でなければたくさん付着しなかったが、それも数年すると付着しなくなるので、磯掃除と称してカーケラ(貝殻)や先に鉄片が付いた棒で石の表面を磨いたものだという。
この投石事業により、昭和32年は42.994キロの生産量が、昭和35年には162.142キロも生産が増大している。この結果、岩手県全体に占める種市産のフノリの割合は、最初の36%から昭和35年には78%となり、県一の生産量を誇った。
しかし、フノリの需要も科学ノリが出回るようになったことや日本髪を結う女性が少なくなったため、昭和35年ごろを境にして減少し、今では食用のみとして生産されるにすぎなくなってしまった。
サイズ
地域川尻
資料ID101TS00068

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