小子内の塩釜神社

名称ヨミオコナイノシオガマジンジャ
時代昭和(戦後)
解説飢きんを乗り越えて塩に生きた人々が
飢きんになると塩を煮る人々が病気や死亡するため、塩を煮ることができなくなり、塩煮の休止願が出されている。
八戸藩の日記によると、
・宝暦6年(1756)5月11日「有家の長根の四郎右ヱ門と申す者の塩釜は、この凶作により塩を煮る力もなく休んでいた。秋には煮ることができるようになるだろうと思っていたが、餓死する者が多く塩釜は廃止いたします」
・天明4年(1784)3月1日「凶作により、角浜・戸類家の百姓たちの死亡率が多くなtったため、各二塩釜あったうち各一塩釜の休止願があったので許可した」
などとあるように、飢きんによる塩を煮る労働者の農民たちの死亡が多くなり、生産を休止したり廃止したりしている。
だが、飢きんが過ぎると生き残った人々は再び生きるため塩煮を始め、塩を運んだ。
この地方の塩煮は、明治38年(1905)6月の塩の専売法の成立と西日本を中心とする大規模な製塩などにより、太刀打ちできなくなり、明治末期に衰退し消滅してしまう。
この地方の人々は、飢きんと時代の大きな流れにほんろうされながらも、太平洋の波に洗われる大自然の厳しくも美しいふところのなかで、人々は自然に寄り添い、時には闘いながら生きてきたのである。
サイズ
地域小子内
資料ID101TS00060

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