潜水技術を伝承した三村小太郎の墓
| 名称ヨミ | センスイギジュツヲデンショウシタミムラコタロウノハカ |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 解説 | 房州潜りも下巻く 村一番のカンズギ この地方の風土は貧しく厳しかった半面、それに耐える不撓不屈の精神が培われ、「潜り」という普通の人では耐えることのできない労働にも耐え得る肉体と精神が育まれるようになった。 南部潜りの創始者である磯崎定吉家は、江戸時代末期ごろまで、村でも屈指の旧家であった。だが、定吉の父の代ごろから家運が傾き、定吉が幼いころ両親が相次いで亡くなった。そのため、定吉は農業や後に名護屋丸が遭難した時に役立った素潜りでアワビやウニを採るなど、磯漁業と出稼ぎで生計を立てていた。 しかし、明治31年(1898)6月25日の名護屋丸遭難で一変してしまう。平内沖で座礁した名護屋丸解体のため、房州(千葉県)潜りの三村小太郎らが訪れ、プロの潜水技術を伝授されたからである。 この名護屋丸を所有していた日本郵船は、同船を離礁させることをあきらめ解体を決定。そして翌年春、種市を訪れた三村ら一行は早速作業に取りかかった。 まず、船の荷物を陸に引き揚げ、イカリや内部の機器類など貴重品を取りはずしていった。そんなあるひ、エンジンのシャフトを作業船につるし、陸に向かっていたところ、どうしたはずみかシャフトが海中に落ちてしまった。 翌朝から潜水夫たちが潜り、付近一帯を捜したが、どうしても発見することができなかった。困った三村小太郎は、村人たちに相談したところ「定吉が良いだろう。定吉はワラシ(子供)のころから、この辺では一番のカンズギ(素潜り)だ」と口をそろえた。三村は半信半疑で頼んだところ、定吉は落ちたときの状況を詳しく聞き、山立(やまだて=海上で自分の船の位置を山、岬、大木などによって位置を測定する方法)で「必ずこの下にある」と海中を指差して断言した。 素潜りたちは「あれだけ探したのに…」と思いながら、その地点を潜ったところ、潜水夫たちが落としたシャフトに馬乗りに座ってしまったという。これが縁で定吉の潜水技術特訓が始まった。 |
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| 資料ID | 101TS00003 |


