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【南部もぐり】近況の伺いと御礼の手紙

名称ヨミ【ナンブモグリ】キンキョウノウカガイトオレイノテガミ
時代大正
解説拝啓時下□義甚敷
御座候處御□家御様
□処仕候康可被成御座奉大
賀候次ニ當方野生共斗□□張
□申候間久他事御安眠被下度候
却設置致候久御免鉄砲貴殿
具□□元来大好奇なる
御大□□□ハ四方大口な□御着
数□□ニ而大?斎□不顧御載
仕□何ニか夫程御□日□ノ儀ハ
御□急の蒙候外ハ無心配□
上貴君久々ニ付御萬話四方ノ
御物語清□□ノ余リ御退屈
ヲ不顧及長座御迷
惑ヲ掛て上候段是又御申向方も無
御座□□難去仕合奉為取先ハ直
般□御厚禮□申上度御席候ノ砌

『南部もぐり』の歴史は、1898年(明治31年)に種市の沖合で貨客船が座礁。解体引き上げ工事のために千葉からやってきた潜水夫の達人:三村小太郎が、人夫として雇われていた地元の青年、磯崎定吉(のちに南部もぐりの祖といわれる)の素質を見抜き潜水の特訓を行ったことから始まる。
ヘルメット、潜水服(ドライスーツ)、鋳物製の潜水靴、バランスを取るために胸の前後に取り付ける鉛など、装備の総重量は約70Kg。地中深くに潜って特殊な作業をする潜りには自分の命を預ける綱持ちやポンプ押しなど多くの人の力が必要となる。徒弟制度で受け継がれてきた南部もぐりでしたが、1952年(昭和27年)には全国で唯一、潜水士を養成する「岩手県立久慈高等学校定時制種市分校潜水科」(現「種市高等学校海洋開発科」)が開設され、卒業生たちは三陸の豊富な魚介を捕る沿岸養殖漁業のほか、国内外で、港湾土木や橋りょう工事、海底調査など幅広く活動するまでになった。
サイズ縦19.8*横38.3cm
地域小橋
資料ID322TRB_00016

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