襖の下張りに使われた古文書【襖B13】

名称ヨミフスマノシタバリニツカワレタコモンジョ【フスマB13】
時代明治
解説上酒屋晴山文四郎家のものと思われる襖の下張り文書の一部。商売の取引記録と思われ『合』印の記載がある。

襖は芯となる木の枠に下地となる紙を何層かに貼り重ねていき、最後に絵画や書などの表紙を貼りあげます。その襖の下地に使う紙には、当時は紙が貴重であったため、書き損じた文書や古い商売の帳面など不要となった紙を再利用しており、中には今の時代には重要な歴史資料となりうる資料がある。

・晴山文四郎とは
 江戸期大野村に在郷商人だった晴山家があった。当主文四郎は、家伝によれば、足利氏の御家人・大崎氏の出で、戦国末期大崎義隆の没落後に流浪し、近世、大野に来住したといわれる。屋号を上酒屋といい、代々文四郎を襲名、主に酒屋を営んだ。古屋又右衛門が名主退役後、天明二年(一七八二)に分家の橘屋晴山吉三郎に代わるまで、大野の名主を務めている。
八戸藩の記録には、宝暦元年(一七五一)鉄問屋として文四郎の名が出ており、安永三年(一七七四)二月には、鉄山支配人に就任した。同五年(一七七六)九月には、鉄山御用をよく務めたとして苗字帯刀を許可され、同七年(一七七八)に鉄山支配人御免となると、褒美として裃を頂戴している。
文化三年(一八〇六)三月には、家業の酒の販売不振のため、新たに和座・大谷での鉄山の吹き立て願いを出し、許可されている。しかし経営がうまくいかず文政五年(一八二二)には、藩への御礼金滞納のため鉄山を没収され、浜谷茂八郎が鉄山を引き継ぐことになる。
安永三年の八戸藩勘定所日記に、文四郎が鉄山支配人に就任したため、大下書を子の吉三郎、名主を子の紋之助へ仮役を命じるといった記録がある。このとき大下書の仮役を命じられた吉三郎は、高齢で実子がなかった文四郎が養子として迎え入れた、高木長左衛門の二男で、後に分家独立した橘屋晴山家(現在の西大野晴山家)の初代吉三郎である。
天明二年(一七八二)に吉三郎が名主役を任命されると、八戸藩の主な役職は、橘屋晴山吉三郎へと移っていくが、晴山文四郎も酒屋・商人宿を営む傍ら、馬指・乙名などに任命されている。
晴山文四郎の事跡のほか、人となりが分かる事柄として、嘉永四年(一八五一)の俳諧風雅帳に、俳号を梅仙と称して俳句を出していたり、八戸の医師、関諄亭が開いた下川原塾の後を継いで、自宅に寺子屋を行うなど、文化や学問に明るい人物であった。
(北三陸の歴史探訪~久慈・九戸地方の風土と人物~)より
サイズ縦23.6*横32.6cm
地域馬渡・大野中区・仲町
資料ID311ORB_00013

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