鶴田吾郎

人物名(ヨミ)ツルタゴロウ
国籍日本
出身地東京市牛込区(現・東京都新宿区)
生年月日(西暦)1890
生年月日(和暦)明治23年
没年月日(西暦)1969
没年月日(和暦)昭和44年

略歴・解説

東京市牛込区(現・東京都新宿区)に生まれる。祖父・弥太郎は愛知県勢田南方の星崎水田の開拓者の一人であった。早稲田中学校を中退した後倉田白羊に洋画を学び、1906(明治39)年、白馬会洋画研究所に入る。同期に中原悌二郎がいた。翌年、中原悌二郎、中村彝と共に太平洋画会研究所に入る。1912年から3年程は新聞社などに勤務した。1914(大正3)年頃、藤井達吉と知り合う。1917年11月、黒船社第二回展に濱田葆光、藤井らの同人と出品。この頃、朝鮮、満州、シベリアを放浪し1920年に帰国。中村彝の下落合のアトリエの近くに住み、交友を深める。同年秋、盲目のロシアの詩人エロシェンコをモデルとした肖像画を二人で競作し、第二回帝展に出品、入選する。1924年の中村彝死去にあたっては、翌年の中村彝会の結成に参加し遺品や遺稿の整理をした。また、川端龍子との交友も生涯に渡り、龍子の死後1966年7月には龍子記念館の理事長に就任している。官展などで活躍し、また写生旅行で日本全国に加えソビエトやインド、ヨーロッパなどを巡った。優れた描写力で人物や風景などを幅広く手がけた。第二次世界大戦中には従軍画家としていわゆる戦争画も描いている。

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