表紙

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新宮領分見聞記・熊野歩行記

名称ふりがなしんぐうりょうぶんけんぶんき・くまのほこうき
大分類典籍
員数1冊
作者有馬真方(写)
材質紙本墨書
法量まとめ縦23.8㎝、横16.1㎝
時代江戸
世紀18
元号寛政6年
西暦1794
伝来臨川書店より購入
解説 表紙に題簽貼して「新宮領分見聞記」とあるが、中身は上巻として新宮領分見聞記(1 ~ 77 丁表)、下巻として熊野歩行記(77 丁裏~ 106 丁表) を載せる。さらに末尾には添書(106 丁裏~ 110 丁) として寛政6 年(1794)~文政6 年(1823) までの追加記事を載せる(全110 丁)。表紙には「仲氏蔵書」という朱印、奥にも「仲氏文庫」という書き込みがあり、旧蔵者をあらわすものとみられるが、仲氏については不明である。奥書から、明和4 年(1767)と翌年に庵本短風道が「新宮領分見聞記」と「熊野歩行記」を書写した本を、寛政6 年(1794)5 月に有馬真方が風道から借りて書写したものであることがわかる。
 「新宮領分見聞記」は、紀伊藩新宮領内の寺社などの名所・旧跡を書き上げた地誌で、浜畑栄造『続熊野の史料』(私家版、1977 年) で活字化されている。写本としては、安政6 年(1859) の奥書のある新宮市教育委員会本(『続熊野の史料』に掲載されたもの)、寛政6 年(1794)12 月の奥書のある和歌山県立文書館所蔵本(表題は「紀州牟婁郡新宮領田数在郷神社仏閣旧跡記」) の2 点が知られているにすぎない。本資料は新宮市教委本と同様の構成・内容となっている一方、文書館本とは表記等が若干異なり、少なくとも写本は2 系統あったものと思われる。本資料においては、詳細な本奥書があることで「新宮領分見聞記」の書写・伝来過程を知ることができる点が重要である。すなわち、寛文元年(1661) に生駒氏が所持していた本がもととなり、延享2 年(1745)に書写、宝暦9 年(1759)に加筆、明和4 年(1767) に庵本短風道による加筆がなされたものであることを知ることができる。「新宮領分見聞記」は寛文元年以前の成立であることもわかる。
 次に「熊野歩行記」(南紀歩行記・熊野獨参記とも) は、元禄14 年(1701) に僧風狂子が著した記録で、楯ヶ崎・泊観音(三重県熊野市) から花窟(三重県熊野市) を経て新宮・那智山・本宮へ到り、中辺路から田辺まで、および大辺路沿いの名所・旧跡について、そこで詠まれた和歌、自らが詠んだ漢詩なども交えて記す。本奥書は「新宮領分見聞記」と同様、明和5 年に庵本短風道が書写したものを、有馬真方が寛政6 年に書写したというものである。
 写本としては、安永3 年(1774) の書写奥書がある和歌山市立博物館本(田中敬忠旧蔵本、表題は「熊野獨参記 附由緒」)、近代の書写本が5 点ほど知られている。市博本と本資料とを比べると、構成や文言は概ね同じではあるものの、一部、加筆・削除が認められ、項目の入れ替えなどもある。別写本の系統もあったのか、書写の際に加除が行われたのかは判然としない。「熊野歩行記」はこれまでに活字化されたものはないが、寛政6 年(1794) に著された熊野の地誌である「熊野巡覧記」(紀南郷土叢書第8 輯として活字化) では「熊野歩行記」をしばしば引用しており、熊野の地誌(の先駆け) として重要な位置を占める。また内容的にも、例えば「水伝の磯〈鵜殿ニアリ〉、此所往来旅人宝永四年〈寛政六寅迄八拾八年〉迄ハ磯を通り候得共、地震の後、山を通ルナリ」とあるように、宝永4 年(1707) の地震・津波の影響で熊野古道の位置が移動したことなども記されており、熊野古道の変遷を知るうえで興味深い。そのほか、天明8 年(1788) の那智川流域の洪水について伝える記事などもある。
 最後に記される添書も、貴重な地域の歴史情報を含む。東紀州地域(主に現在の三重県熊野市域) の遺跡のほか、聖護院・三宝院の入峰、熊野で起こった文化5 年(1808)7 月の台風・大時化、新宮城下町における文化7 年・文政6 年の火事、文化8 年のほうき星(彗星) 出現などの独自情報を載せる点で地域の歴史資料として貴重である。

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