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明治壬申年九月七日和泉国大鳥郡 仁徳天皇御陵南登リ口地崩出現ノ石棺幷石槨図

資料名(カナ)メイジジンシンネンクガツナノカイズミノクニオオトリグンニントクテンノウゴリョウミナミノボリクチジクズレシュツゲンノセッカンナラビニセッカクズ
文書群名落合直澄家文書
年代(和暦、年月日)
解説明治5年(1872)9月7日に堺県(現・大阪府堺市)の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)前方部斜面が崩れて、内部から発見された石槨及び石棺を描いた絵図の写し。本図は、柏木政矩が石槨内部に入って描いた原図の写しで国内には絵図の写しが数点残されている。八王子市郷土資料館で所蔵する絵図2点は、八王子出身の国学者落合直澄が所有していた写本であり細かい寸法が書き込まれた彩色図である。
本図は石槨と石棺を上から描いた図である。石槨には崩壊した部分が描きこまれ、内部の石棺は8つの突起がついた長持形石棺であったことがわかる。また、甲冑や硝子坏などの副葬品が置かれていた場所が文字で記録されている。なお、本図には落合直澄が御陵を管理していた池田昇からの聞き取り調査の記録が絵図の上に貼付されている。この貼り札には石棺小口の突起数が2個ではなく1個であったという池田の証言が記されている。

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