資料解説 | 三方領知替えによって、文政6年9月28日、阿部家に代わり松平下総守家が伊勢国桑名から武蔵国忍へ入封する。武家地に記された松平家家臣の姓名を国替え時の屋敷割の記録「就武州忍江御所替御家中屋敷幷御長屋拝領所附名前、附阿部鉄丸様御家中先主名前帳」(当館蔵奥平家文書)と照合したところ、居住予定であったが直前で大坂蔵屋敷詰や伊勢分領詰が決まり実際には国元に移住しなかった者の姓名が複数名確認された。したがって、この絵図は屋敷割の当初予定を図示したものであった可能性が高い。これに対して、実際の居住者を確定させ、屋敷割の改変、長屋の増築を済ませた忍城が「文政年間忍城図」に描かれている。絵図の描写からは櫓や門など所々に建造物の形状を推し量ることができる。また、赤茶色で示された蔀は、本来城郭外からの目隠しを意味するが、実際は鬱蒼とした木立がその役割を果たす景観であったと考えられる。そうした風景は「明治六年調製忍城図」にも描かれており、沼地に浮かぶ島々を利用して築城された忍城ならではの原風景といってよい。このほか、城郭北方の馬場曲輪に家臣団が暮らすための「新長屋」が建設されていることがわかるが、馬場曲輪東部の矢場と鉄炮矢場はまだ残されている。この絵図は文政6年12月25日に筆写されたもので、小山行積の秘蔵とある。小山の人物像については定かではないが、国替え直後に屋敷割絵図の閲覧が叶い、かつ筆写できたことを考えると、松平家家臣の可能性が高い。 |
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