忍城図

資料番号1997-101-23
大分類歴史
よみおしじょうず
資料解説各曲輪の名称や土塁の形状、道筋が描かれた忍城図。本丸を中心に二ノ丸、たいめん所(対面所)、たうしやうくるわ(道場曲輪)等が描かれる。朱筆で描かれた道筋は近世初頭の城絵図に共有する特徴である。堀にあたる部分が薄い黄土色で着色されているが、経年等にともない変色した色である可能性が高く、描写当時は水色、あるいは原図が薄い黄土色であったとみられる。「馬出」や「出丸」が具体的に墨書で示されるだけではなく、「此榎二本共ニ権現様御ホメ被成候」といった慶長期以降の徳川家康の来訪時のエピソードにまつわる城郭の景観情報も盛り込まれている。また、松平忠吉の屋敷跡を表す「中将屋敷」が記載されるとともに、城下町を東西に通る後の本町通りは「行田本宿」と記述されており、近世初頭の忍城を描いた城絵図が筆写であったとみられる。武家地のなかには江戸幕府の鷹場役人(鳥見・鷹匠)が詰めた「御鷹部ヤ」の記載がある。忍・鴻巣の御鷹場を管理した彼らは慶長6年(1601)頃から、鴻巣の鳥見屋敷に移る寛文3年(1663)12月まで忍城内に鷹部屋を構えていた。したがって、絵図に描かれた忍城は近世初頭から寛文三年までの姿であることがわかる。この絵図は文政6年(1823)5月中旬頃に松平忠堯の家臣である奥平十郎左衛門定在が筆写した。同年3月24日に伊勢国桑名から武蔵国忍へ国替えを命じられていた松平家と家臣団は新たな居城や領国の情報収集を行っており、この絵図も領国把握の一環として筆写されたものと考えられる。
時代・時期江戸時代
年号・日付文政6年(1823)5月中旬写

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