小針沼新田開発図

資料番号1997-14-112
大分類歴史
よみこばりぬましんでんかいはつず
資料解説享保13年(1728)、見沼代用水の開削にともない、小針沼の干拓は本格化していった。しかし、本来は排水の溜池であった小針沼が干拓によってその役割を果たせなくなると、野通川の下流域の村々では水量が安定せず、水害が多発する。これを改善するため、宝暦4年(1754)に干拓した沼地の中央に中堤を築き、上流側にあたる西側(長野村・若小玉村分)を上沼として再び沼地に戻した。この中堤の境界は現在、古代蓮の里と行田浄水場を隔てる道路にほぼ合致するため、江戸時代の沼と新田の広大さを知ることができる。
時代・時期江戸時代

PageTop