小針沼裁許絵図

資料番号1993-2-1
大分類歴史
よみこばりぬまさいきょえず
資料解説埼玉村と赤城村が小針沼の境をめぐって争った裁許で確定された境界を示すために描かれた裁許絵図。訴訟方の絵師弥七と相手方の絵師秀賢の両名が署名をしている。現在、古代蓮の里と行田浄水場のある地に、かつて小針沼(埼玉沼ともいう)と呼ばれた広大な溜池があった。この沼に排水を溜めることで、野通川流域の水量が安定し、下流村々の安心した生活を維持していた。しかし、江戸幕府が各地の新田開発を進めていた延宝年間(1673~1681)頃から徐々に小針沼も干拓が行われていった。
時代・時期江戸時代
年号・日付享保7年(1722)

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