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岡部家古文書

資料ID10147
資料番号C0191
大分類歴史
中分類古文書
資料名(ヨミ)オカベケコモンジョ
寸法(高さ/cm)軸装42.1
寸法(幅/cm)軸装377.4
点数5
制作年代天文5年11月3日(1536)
公開解説①岡部左京進親綱に宛てて出した義元自筆の感状。花蔵の乱において、岡部親綱が義元側に立って所々に走り回り(転戦し)粉骨を尽くしたことや、寿桂尼が花蔵方(恵探側)に持参して取られた住書(=注書)を親綱が取り返したことを賞している。義元子孫末代に対し、親綱の忠節は比類ないものであるという最大級の賛辞を送っている。なお、後筆の追而書には、大上様(=寿桂尼)が注書を取り花蔵方へ持参したことや、葉梨城を攻め落としたときに奪われた注書を親綱が取り返し義元へ進上した功績により、義元が自筆で感状を下したことを子孫への覚えとして書き記した旨が補足されている。本文書及び『高白斎記』の「花蔵ト同心シテ」の文言から、恵探側へ重要な注書を持参した寿桂尼の動向がクローズアップされることになった。寿桂尼が実子の義元ではなく恵探側として行動した可能性があることも提起されたが、近年は、寿桂尼が恵探側へ合戦回避のための調停案を示したという説や、恵探側を油断させて奇襲をかける偽装工作を行ったという説なども出されており、寿桂尼が義元側として行動したと解釈するのが主流である。なお、本文書と同日付の今川義元判物の写しが伝わっている(土佐国蠹簡集残編)。親綱が駿府の今川館(=当構)及び方上城(焼津市)・葉梨城(花倉城)で、義元側として奮戦した恩賞として、3か所の所領が宛がわれている。
②「先年参州小豆坂合戦之刻」とあり、天文17年(1548)3月に雪斎率いる今川軍と織田軍の間で行われた小豆坂合戦での岡部元信の戦功に対する感状である。当初、小豆坂上の今川軍が優勢に戦闘を進めたが、織田勢の反撃に遭い今川軍が押し返されたとされている。本文書にも今川軍が難儀に及んだところ、元信が引き返して馬を入れ織田勢を突き崩して勝利を得たことを義元が賞している。この名誉の褒美として、元信が合戦時に軍馬に着せた「筋馬鎧」及び「猪立物」の軍装について、今後、分国中の武士が身に付けることを禁じており、元信の目覚ましい戦功ぶりをうかがわせる。
③桶狭間合戦における岡部元信の軍功を賞し、没収した元信の本領を還付する内容の氏真感状。岡部元信が鳴海城を堅固に守り粉骨したことや、その後、今川家の下知を得て城を明け渡し城兵たちを無事引き取ったこと、さらに、駿河への帰途、刈谷城を計略で襲撃し、城主水野藤九朗以下の城兵たちを多数討ち取り場内に放火したことに対して賞している。本感状によって桶狭間合戦と今川勢撤退に際する具体的な戦闘行動を知ることができ貴重である。岡部元信は、織田信長に要求して主君義元の首をもらい受けたことが『家忠日記増補追加』に記されており、敗軍の将とはいえ、元信の勇敢かつ忠義の行動は称賛に値するもので、元信の武名が東海地方にとどろいたと思われる。
④岡部元信(?~1581)は今川から武田へ仕えた駿河先方衆で、『甲陽軍鑑』「惣人数」に「岡部丹波守十騎」とある。元信は今川時代に小豆坂の戦いや永禄三年桶狭間合戦での退却時に華々しい戦功を挙げた勇将だった。武田仕官後の天正七年(1579)、高天神城の在番(城主)となり籠城戦をおこなったが、徳川軍の包囲の中で逼迫し、天正十年三月二十二日、城兵が討って出て全滅・落城し元信も討死した。本文書では、武田家が元信に対して元信の本屋敷や今川義元の隠居屋敷を与えている。駿府にあった義元の隠居屋敷は大邸宅だったと思われ、そこを与えられたのは元信が誉れ高い勇将として武田家内でも厚遇されたことを物語っている。
⑤岡部丹波守元信の同心衆十人の給恩として、「時谷百三拾貫文」の土地を与えることを約束した武田家朱印状。「時谷」は藤枝市内にある時ヶ谷(駿河国内)に比定されているが、詳細は定かではない。なお、二日後の二月九日には武田勝頼が元信に対して、遠江国榛原郡内の各所の所領千五百貫余りを宛て行い戦功に励むべきことを命じている。天正五年段階で遠江における徳川との争奪戦が熾烈になっていることが背景にあると思われる。

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