シャラントンの洪水(1)

作者ポール・ガシェ
ArtistPaul-Ferdinand Gachet
TitleCharenton in Flood (1)
制作時期1897年頃
技法・材質紙、エッチング
サイズ28.0cm×18.0cm
取得方法石川欽一氏寄贈
取得年度平成27年度
所蔵品目録番号2183
作品解説作者のポール・ガシェ(1828-1909) は、精神科医、ゴッホ最期の主治医で、印象派など当時の前衛芸術を支援した人物でもありました。ゴッホが描いた肖像画の、頬杖をついた気難しそうな顔が思い浮かぶ方もいらっしゃるかもしれません。モデルとして知られる人物ですが、アマチュア画家の顔もありました。なかでも彼が力を入れたのが、エッチング、腐蝕銅版画です。特殊な用具に加え、知識と技術も必要とされるこの技法に、趣味の域を超えて熱中したようです。さらに、ピサロやセザンヌら交友の深かった画家たちにもエッチング制作を熱心に勧めました。ゴッホがガシェに心を開いたきっかけも、ガシェの指導でエッチングを手がけたことだったといいます。
 さて、この作品でガシェが描いたのは、パリに隣接するシャラントンの洪水です。洪水の様子をわざわざ絵にするとは驚きですが、実はモネやシスレーなど印象派の画家たちが好んで描いた画題でした。川幅の広がった水面に乱反射する光、刻々と変化する空、水浸しになり一変した街は、光と色彩を描くことを第一とした彼らにとっては格好の題材となったのです。印象派の表現に感服したガシェも彼らに倣って描いたのでしょう。
 ただしガシェは、この画題にモノクロの版画で取り組みました。左は雨の降る最中、右は水浸しになった木々の様子が描かれています。時間の変化を連作のように表現しようとしたのでしょう。注目したいのは、エッチングならではの技法です。例えば、雨足の弱まった右の作品では、細かな点のみで雨粒を表現していますが、これは版に松ヤニなどの粉を吹き付ける手法を使っています。さらに、左の強く降る雨は、版を彫る前にあらかじめ細かい傷を加えて表しているようです。当時、写真や新しい版画技術におされ危機的状況あった、エッチングの再興と普及を図ろうとする運動が興っていました。これに共感したガシェは、エッチングには不向きと思われる画題にも、高度な技法を駆使することで挑んだのかもしれません。
 ところで、線をひたすら丁寧に重ねて描いたガシェの作品には、プロの画家の洗練された表現とは違う、熱のこもった力強さがあります。そこには、彼の「描くこと」に対する情熱や、画家たちへの憧れを感じます。ガシェが古いタイプの写実的な西洋画よりも、印象派やセザンヌ、ゴッホらの絵を好んだ理由もそのあたりにあったのかもしれません。つまり、新しいタイプの絵には、見る人を描きたい気持ちにさせる、そんな魅力もあったのでしょう。ガシェの作品を見ると、当時の人々が前衛芸術に感じた新鮮さにも想像をめぐらせたくなります。
 ちなみにこの作品は、大正時代にフランスに留学した洋画家の間部時雄が、ガシェの息子から贈られたものです。ガシェはすでに亡くなっていましたが、ゴッホゆかりの地であるガシェの家を、たくさんの日本人留学生が訪れました。なかでも親しく交流した間部は、息子の勧めで、ガシェが残した道具でエッチングを試みています。そんな縁から贈られた版画集に収められた作品です。
(音ゆみ子「所蔵品から」『府中市美術館だより』第53号、2021年3月、府中市美術館)

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