富士

作者和田英作
ArtistWADA Eisaku
TitleMount Fuji
制作時期明治32年(1899)
技法・材質キャンバス、油彩
サイズ39.5cm×51.6cm
署名等画面左下:E.Wada. '99.
取得方法購入
取得年度平成8年度
所蔵品目録番号0279
作品解説明治7年(1874)12月23日、現在の鹿児島県垂水市生まれ。4歳から上京、麻布に住む。明治23年の第3回内国勧業博覧会を見て画家を志す。翌年から旧派の代表的画家曽山幸彦に師事するが、その後曽山の死を契機に原田直次郎の鐘美館に移る。旧派の指導下にあった時代から、既に光を意識した明るい画面が見受けられる。原田が病気となったため、明治27年からは黒田清輝の天真道場に学んだ。明治30年には黒田の《昔語り》に影響を受け、抒情豊かな構想画《渡頭のタ暮》を描いた。
 本図《富士》は、明治32年に描かれ、外光的な紫色の影を用いた描き方を用いつつも、いかにも旧派的な日本的な題材を仕上げている。ここに、生涯変わることのなかった日本的抒情性の追求の姿勢を感得することができよう。同年、西洋画研究のため満3年のフランス留学を文部省に命ぜられ、渡航。翌年、アカデミーコラロッシュに入学。ラファエル・コランに就いて学ぶ。明治34年10月より翌春まで約半年グレーに暮らし、浅井忠と共同生活をしながら交換日記『愚劣(グレ)日記』を記した。同地で彼は油絵・図案・漫画等を描き、友人たちと句会まで催していた。滞欧中の作風は、それまでの作風と異なり《読書》《塚本靖肖像》に見られるような静けさをたたえたアール・ヌーヴォーあるいは象徴主義的傾向を示し、浅井忠とともに先進の潮流の高い理解の程を示している。明治36年7月帰国。その後第5回内国勧業博覧会や第8回白馬会に出品。これ以降の作風は、個性重視・技巧排斥の論調と相まって、在野から旧派的との批判も受けたが、彼は自然主義的傾向を変えることなく、卓越した技法によって湿潤な日本の風土を油彩画によく定着させた。
(志賀秀孝「作品解説」『府中市美術館所蔵作品50選』2000年、府中市美術館)

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