島津久光写真(四老公衝立より)

島津久光 写真

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解説島津久光(1817-1887)は江戸時代末期から明治時代にかけての大名、政治家。11代薩摩藩主・島津斉彬の異母弟で12代藩主島津忠義の父。斉彬没後、薩摩藩の事実上の最高権力者として公武合体などに尽力した。前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、前宇和島藩主伊達宗城とともに四侯会議の一員として15代将軍慶喜との協議を行ったが、意見の一致をみることはなく、最終的に薩摩藩は倒幕を方針として王政復古・戊辰戦争を戦うこととなった。
 明治維新後は内閣顧問・左大臣等を歴任するが、新政府の急進的政策には批判的で、明治9年(1876)に新政府を辞して鹿児島に帰郷して後は史料の収集や歴史書の執筆に専念した。
 『逸事史補』の中で松平春嶽は、久光について「久光卿は大変古い考えの人で、古法を固く守ることを大切にしたと衆人は言った。幕府政治の頃より今に至るまで、評価は変わらなかった。だから悪口をいう人もあるが、才知よりも道徳を重んじ、尊王の志はかえって斉彬公を超えていたものと思われた。この公は陸軍よりは海軍のほうにもっぱら力を尽くしたいとおっしゃった。この公の談話にもたいへん感服敬服することが多かった。」と記述している。
 本写真は慶応3年(1867)5月14日、二条城において行われた「四侯会議」の後の晩餐にて、慶喜の発案により撮影された四老公の写真の1枚である。

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