硫黄鳥島の今昔(2008年と1947年)

硫黄鳥島の今昔

遺産名(ヨミ)いおうとりしまのこんじゃく
資産概要硫黄は火薬の材料として用いられ、7世紀ごろ中国で発明されて以降、火山のない中国ではとても珍重される鉱物だった。 現存する最古の記録では、琉球王国以前の三山時代、中山王が中国(明王朝)へ硫黄鳥島産の硫黄を朝貢しはじめたのが14世紀後半から。 人々が定住した時期は不明ながら、おそらく朝貢以前であろうと考えられている。 15世紀前半、琉球王国成立後も中国との交易は続き、島民には年間で硫黄1万6千斤と摺貝(螺鈿細工に用いるヤコウガイなど大型貝類の加工品)800枚の上納を求められる一方で、夫役(労働奉仕)の免除と米の支給があった。 さらに17世紀後半になると支給米が増量されるなどの優遇政策により、移住者が増えていった。

明治36年(1903年)4月、硫黄採掘坑が爆発したことをきっかけに、翌年には国や沖縄県の働きかけによって、全島民が久米島へ移住した。 移住後にふたたび42世帯が入植し、国策企業による硫黄採掘や石うすの生産などを行い、戦前には人口600人に達して、小中学校、診療所、役場が設置された。 しかし昭和34年(1959年)の噴火によって全島民が那覇や久米島へ移住をよぎなくされ、さらに昭和42年(1967年)の噴火で出稼ぎの採掘員も撤退し、完全な無人島になった。 こうした歴史の遷り変わりを経て、硫黄鳥島は鹿児島県でなく沖縄県となっている。

※PDFの右側の写真、1947年(昭和22年)当時は戦後間もないアメリカの統治下だった。まだ採掘関係者が住んでおり、島の南部には家や畑が見られる。

 

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