平和通り(平成28年に再舗装)

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徳之島陸軍浅間飛行場滑走路跡

名称(ヨミ)トクノシマリクグンアサマヒコウジョウカッソウロアト
中分類戦跡
小分類近代
所在地天城町浅間
時代・年代昭和19~20年
遺産概要昭和18年に2200名の島民が徴用され、建設工事が行われた。戦争末期には神風特攻隊の前線基地としての使用された。浅間集落南側の畑地一帯を南北に貫くように通る平和と通りが、徳之島陸軍浅間飛行場滑走路である。昭和18年10月9日に航空本部熊本支所長などが浅間一帯を視察し、同年10月12日には鹿児島県より派遣された技師によって測量が行われた。測量が終わると土地買収が始まり、宅地、畑地などの約79万㎡もの土地が買収された。同年11月28日には、4ヶ町村町に2280人の人夫供出の命が下り、12月6日~8日に人夫出動命令が下されると、小学校卒業の男女から満60歳までの人夫を動員し、飛行場建設が始まった。昭和19年1月からは、沖永良部、与論両島より300名余りの労務者が応援にきて、5月には、ほぼ飛行場が完成し、6月には飛行中隊本部、事務室、整備室などが設置された。徳之島陸軍浅間飛行場は、滑走路、補助滑走路、誘導路、掩体壕、中隊本部壕跡などが残っている。本飛行場跡は鹿児島知覧の万世飛行場の中継基地であったため、知覧を飛び立った特攻機が中継して、ここから沖縄へと前進している。

浅間集落西側の畑地一帯を南北に貫くように通る平和通りが、徳之島陸軍浅間飛行場滑走路跡である。
徳之島陸軍浅間飛行場は昭和18年12月から本格的な建設工事が始まり島内2280名をはじめ、奄美大島
沖永良部島、与論島からの人夫や青年学校の生徒など4280名を徴用し、人力主体の突貫工事で翌年の
6月に完成した。その規模は、1500mの滑走路と掩体壕20ヵ所、補助滑走路や誘道路など浅間集落の
約79000㎡もの敷地に及んだ。建設工事中から空爆に見舞われており、昭和19年10月の1回目の空襲によって格納機など27機が焼失し、基地としての機能の大部分は失われ、中継基地としての機能のみとなった。
その後も空襲は続き、夜間に補修工事を行い翌日の出撃に間に合わせた。徳之島陸軍浅間飛行場からは、
特攻機が昭和20年3月から5月にかけて14回(43機)沖縄の海へと出撃している。
文献・資料〈参考文献・資料〉
●天城町誌編纂委員会『天城町誌』
●天城町誌編纂委員会1978年『天城町誌』天城町役場
浅間集落誌編纂委員会2006年『浅間の移り変わり 浅間集落誌』

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