竪穴住居など検出状況

中里遺跡

名称(ヨミ)ナカザトイセキ
中分類集落跡
小分類貝塚前期(縄文)
所在地天城町天城字前里
時代・年代貝塚時代前5期(縄文晩期)・中世
遺産概要【位置と環境】
 中里遺跡は、天城町中部の天城集落に所在している。大和城山(標高329m)の南西側に広がる石灰岩台地に集落が展開しており、中里遺跡はこの台地の南西側縁辺部に立地し、標高はおよそ43mとなる。遺跡の南西側崖下には天城町で最大の港である、平土野港が立地している。

【調査経緯】
 平成20年に、天城町役場建設課が計画した町営住宅建設の計画地内に中里遺跡が含まれており、遺跡の取り扱いについて鹿児島県文化財課、天城町建設課、天城町教育委員会で協議した結果、遺跡保護と事業の推進のために、発掘調査を実施し、遺跡の記録保存を行ったうえで、町営住宅建設を行うことが決定された。これを受けて、天城町教育委員会による発掘調査が平成21年2月24日から、9月18日の期間で実施された。

【概要】
 遺跡地内は畑地として使用されていたため、重機による深耕によって、遺構のほとんどが大きく破壊されていたが、貝塚時代前5期(縄文晩期)と中世の二つの時期の遺構や生活の痕跡が確認された。
〈貝塚時代前5期〉
 貝塚時代前5期の遺構として竪穴住居跡3基と土坑1基が確認された。3基の竪穴住居跡のうち2基は大部分が破壊されていたが、全体の規格が確認できる程度に残存していた竪穴住居跡(2号住居跡)は、大きさが2.8m×2.4mの竪穴の壁沿いに、石を並べた跡と考えられる溝が断続的に廻り、竪穴の床面からは柱穴5基と炉跡が検出した。住居跡や土坑から出土した土器の大部分は仲原式土器となり、これに伴って、宇宿上層式土器などが僅かに出土している。
 石器は石斧や磨石などが多く出土しているが、奄美群島では出土例の少ない、剥片石器類も得られている。特に、徳之島では産出しない黒曜石製の石鏃(矢じり)やスクレイパーなどが包含層などから見つかっっており、これらの黒曜石は、その上質さから、佐賀県伊万里市腰岳産と考えられている。このことから、中里遺跡に暮らした人々が海を隔てた遠い地と交流を持っていたことが明らかとなっている。
〈中世〉
 中世の遺構として、柱穴群、掘立柱建物跡、柵列跡、鍛冶炉、木棺墓、柱穴列などが確認されている。
D調査区から、多くの柱穴群がハチの巣状に検出した。発掘面積の制約もあり、明確な建物プランを推定することはできなかったが、掘立柱建物跡の住居跡がいくつも重なりあったものと考えられる。この柱穴群と一緒に、柵列跡や鍛冶炉跡が検出している。柵列跡は三つの柱穴が1組となったもので、それが4組、北東ー南西軸に一直線に並んで検出している。柵列跡を境に柱穴群が区画されることから、屋敷囲いなどの柵列であった可能性がある。この柵列跡に類似したものが、沖縄県宜野湾市の伊佐前原遺跡においても検出している。
 鍛冶炉は2基検出しており、炉床の平面形は楕円形状となり、すり鉢状に中央がくぼむ形となっている。鍛冶炉の近くから鉄滓や鞴の羽口などが出土している。
 C調査区から検出した掘立柱建物跡は、4基の、深く径の大きな柱穴で構成されるもので、4本柱の高倉など高床式の建物跡と考えられている。同じC調査区から、木棺墓が検出した。重機による掘削によって大部分が破壊され、人骨などは確認できなかったが、副葬品と考えられるカムィヤキの壺がほぼ完全な形で出土した。木棺は完全に朽ちていたが、その部分が黒色化しており、その部分を境に堆積する土層が異なる状況が観察されている。
 これらの遺構からは、中国産陶磁器や滑石製石鍋、滑石混入土器などが出土しており、これらの年代観から11世紀後半~12世紀頃の集落跡と考えられる。この時期は徳之島において、カムィヤキ陶器窯跡群の操業が開始し、農耕や鉄の使用及び加工が本格化し、これまでの狩猟採集経済から生産経済へと大きく転換したと考えられており、中里遺跡はこの大きな転換を伝える重要な遺跡である。
文献・資料〈参考文献・資料〉
●県埋蔵文化財情報データベースhttp://www.jomon-no-mori.jp/kmai_public/
●天城町教育委員会2010『中里遺跡』天城町埋蔵文化財発掘調査報告書(4)

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