表紙
清風瑣言 上[貴重本]
| 登録番号 | 35201 |
|---|---|
| 資料名(ヨミ) | セイフウサゲン 01 |
| 分野 | 図書・逐刊 |
| 員数 | 1 |
| 図書番号 | B97-01235 |
| 請求記号1 | J07 |
| 請求記号2 | セ |
| 開架区分 | 閉架 |
| 著者 | 上田秋成著 |
| 著者ヨミ | ウエダアキナリ |
| 出版地 | 浪華 |
| 出版者 | 渋川清右衛門 |
| 出版年(西暦) | 1774 |
| 出版年(和暦) | 1794(寛政6年) |
| 形態 | 3,[1],22丁,23㎝ |
| 注記 | 和装.2巻2冊. 上田秋成:浪華無腸翁著 上下2巻 参考:『茶の湯紀行』村井康彦著 p238「秋成晩年、大館高門にあてた手紙に10年前に著した『清風瑣言』後悔の意を示している。『青湾茶話』を参考にして、名水「柳の水」を記載してしまった。天明9年(1789)正月の大火で、『清風瑣言』が出たときは味が苦くて尋常の井にも劣るものだったの知らず記し、堅田有庵からこっぴどく批判されたからだという。・・・」安部記 「師匠:大枝流芳→都賀庭鐘つがていしょう→上田秋成(『青湾茶話』流芳著の序文を庭鐘が書いている。)秋成享保19年(1734)生まれ。」と『煎茶の魅力』小川後楽に記載。 『煎茶の魅力』小川後楽著「秋成は5歳の時、痘瘡を患い、右手第二指が短くなるという奇形になったが、自ら剪枝畸人とか、蟹の異名である無腸を号として、自嘲していた。しかし、無腸こと蟹こそ、また、煎茶人の生き方を象徴するものだったのである。というのは、蟹は澄んだ美しい水の流れの中にしか住まず、また世の中を、立身出世を願って真っすぐに歩くをということはせず、いつも横に歩いているからだった。、、、本間游清の随筆の中に「秋成は茶をこのみて、粟田焼のこんろきびしょうは、秋成より初めて造りて世に広まりしという。、、、、自らこんろきびしょうを造りて妙法院宮へ奉りし事もありしとぞ」」と記載あり。。」 『茶道教養講座⑭日本茶の歴史』橋本素子氏著P148より引用。 「『正喜撰』(蒸気船)のふるさと池尾村 、、、、泰平の眠り世を覚ます上喜撰(蒸気船)たった4杯でも夜も寝ぬれず。歴史の教科書でおなじみのこの狂歌は、嘉永6年(1853)6月アメリカ人ペリーらが四艘の軍艦で浦賀沖に来航した際に詠まれたもの。、、、、、、、「焙炉」、、、、、、寛政6年(1794)刊の『清風瑣言』にも喜撰は山岳の名、其の山下なる池の尾に出すなり」山間の村、宝暦頃から煎茶の生産をはじめた宇治郡池尾村の「喜撰」は有名になっていた。そのため「喜撰」の偽物がでまわるようになったので「正喜撰」「上喜撰」という銘を使うようになったとつたえられている。幕末には狂歌に詠われるまでに世に知られた煎茶の銘となった。」とある。 ※『屠赤瑣々録』竹田著に文化4年(1807)儒者村瀬栲亭の家に上田秋成(74歳)が訪れたまたまその席にいた田能村竹田が同席して一時の記述があるとのこと。『しっかりわかる煎茶入門小川行楽著』淡交社p121「その日、秋成・栲亭の二人が、もっとも情熱的に語りあった内容は、煎茶のことだった。「朝より話昼ごろまで咄(はんし)あり。余も側に侍す。清風瑣言の続編を録し度由(たきよし)の話にて、この度は茶瘕酔言(ちゃかすいげん)と題して、面白き話を叢むる由也。と竹田は記している。今、流行する煎茶も、先生(栲亭)余齋(秋成)両人して図を製し、其の頃清水の陶工六兵衛というものに命じて作らしむ。彼是世話して漸(ようや)く出来(しゅったい)す。わずかに十二,三年計りの事なり。今は三都を始め田舎まで行われて、片隅の怪しき茶碗店まで、急焼(急須)風呂(涼炉)を沽(う)らざるはなし。と、『清風瑣言』刊行以来、わずか一二,三年のあいだに京都の町中で、いかに煎茶が流行したかを物語っている。」・・・・・」安部記 |