1巻 p.096-097

ページ概要久里浜村ニアイヌ式遺趾ヲ発見ス/浦賀町髙坂貝塚ニ於ケル人骨片/山崎貝塚ヨリ古銭発見/北下浦村津久井土器散布地/山崎貝塚発掘古銭/大塚山古墳
含まれる遺跡・寺院等髙坂貝塚/山崎貝塚/大塚山古墳
遺跡・寺院等の所在市町村横須賀市
登場人物(記載ママ)小松眞一・中村正男君
記載年月日大正13(1924)年5月11日/大正13(1924)年5月17日/大正13(1924)年5月18日/大正13(1924)年5月24日
翻刻[判読不可は■][p.096]
〈久里浜村ニアイヌ式遺趾ヲ発見ス〉(大正十三年五月十一日)
(地図)
久里浜村久里浜南方ノ山ニ畑アルトコロアリ、コノ山下畑トナレルトコロノ附近ニアイヌ式土器片ノ分布アリ。
薄手ノモノ多ク中ニ外面ニ朱ヲヌリタルモノアリ、紋様ハ雄大ナルモノナリ
幾分彌生式ノ臭ミアリ、右ノ拓本ヲ参照セヨ

〈浦賀町髙坂貝塚ニ於ケル人骨片〉
(1)先年頭骨ヲ出シタルトコロニテ(大正11.11.18)本日背椎骨ノ十数ヶ連レルヲ発見。ソノ周囲ニ土器片多数アリ。
(2)土手ノ貝層上ニ頭骨(破壊サレタル)発見上部ニ朱ノ土ニ混ゼルヲミル。

〈山崎貝塚ヨリ古銭発見〉(大正十三年五月十七日)
山崎貝塚ノ貝層ノ二寸程上部祝部土器片ノ下ニ右ノ如キ古銭発見サレタリ
中村正男君ノ発掘ニナレリ。

〈北下浦村津久井土器散布地〉(五月十八日)
津久井後方山畑ニ彌生式土器ラシキモノ散布シ居リ。紋様細縄紋ナリ。朱塗リノモノアリ。スベテ薄手ナリ。

[p.096-097綴込み]
(手紙・縦書き)
拝啓
(マスキング:著作権保護のため)
敬具
九月十九日
人類学教室にて
小松眞一
赤星様

[p.097]
〈山崎貝塚発掘古銭〉
上の文字は「紹」なるべし 然らば「紹聖之宝」あり、宋の哲宗の紹聖年中造なり。我堀河天皇の御代(白河法皇時代)にて紀元千七百五十四年後なり。銅銭にて篆書、背文なし。
祝部土器ト伴出スルハ疑ハシ

〈大塚山古墳〉 (大正十三年五月廿四日実測)
位置  浦賀町大津、大塚山に前方後円墳及円墳あり(次頁の圖参照)。
大塚山は大津と吉井の間にあり、東西に連れる山なり
望めば四方を見うべく、北は横須賀軍港を南東には東京湾をへだてヽ房総の山をのぞみ得る地にあり。南に広き低地あり、昔は東京湾の海水近くこの山麓によせゐたりと思はる。この山頂に主軸の方向を東西にしたる前方後円墳あり その西南に円墳あり 以下これに
つきて述べん。
前方後円墳  圖に見る如き細長き形をなす 僅かに前方部のゆがめるを覚ゆれど上部平らにして整然たる形をなせり。(細部は論文No.1にあり)
墳の長約97尺前方部最大巾35尺 後円部巾26尺あり くびれの部分は僅10尺内外にすぎず。墳上部の平らなるところにて前方部巾25尺後 円部巾11尺 くびれの部にて6尺あり 長74尺なり 高さは地形の関係にて南北にて差あれど南方より測れば前方部13尺後円部8尺あり 北方より測れば高6尺内外なり、北方には墳麓より約二十尺距りて低き土手約50尺程あればこの間に■のありしにや されど南方にはそれらしきものなく、傾斜せる平地あり 墳麓より24尺の巾あり。

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[翻刻者(所属は翻刻時)]
大竹 創(慶應義塾大学文学部 民族学考古学専攻2年)
千葉 毅
[翻刻日]2021年2月21日・2021年2月23日
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ノート所蔵機関赤星直忠博士文化財資料館

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