六所神社 本殿、幣殿、拝殿 (附 厨子6基/棟札6枚)/神供所/楼門

分類国指定
種別建造物
所在地岡崎市明大寺町
所有者六所神社
指定年月日S10.5.13
時代江戸前期 寛永13 (寛文2年社殿修復)
詳細解説岡崎に進出した松平氏に信仰された明大寺の六所神社は家康誕生時の産土神とされた。寛永11年(1634)に上洛した徳川家光は、道中、家康ゆかりの六所神社の改築を命じ、同13年に社殿は完成した。現存する社殿および神供所はこの造営によるもので、本殿・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)、神供所(しんくしょ)、楼門(ろうもん)が指定文化財になっている。急峻な斜面に石垣を組んで築かれた社地は西を正面とする。石階段を上ると楼門があり、正面に近接して拝殿・幣殿・本殿が、門の北側に神供所が建つ。昭和48年(1973)からの修理工事により、本殿・幣殿・拝殿の屋根は檜皮葺、楼門、神供所の屋根は栩葺(とちぶき)に復原された。
楼門は、入母屋造、間口三間の楼門である。様式的に本殿より遅れるとみられてきたが、修理で貞享5年(元禄元年、1688)の墨書が発見され、徳川綱吉による元禄の造営によるものと判明した。典型的な和様(わよう)の楼門の構成で、軸部、組物など主要部分は丹塗、上層高欄や格天井は黒漆塗、一部装飾には極彩色を施すが、本殿に比べて彩色は少ない。
社殿は本殿、幣殿、拝殿が一体となった複合社殿の形式をとる。本殿は三間社流造で、棟には鬼板を置くが、伊賀八幡宮とは異なり棟には千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)を置かない。内部は前後に間仕切内陣と外陣(げじん)に分ける。内外陣とも畳敷き、内陣は3室に仕切り、各室に附指定となっている厨子二基づつ計六基を納める。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の建物で前面を吹放ちとし、内部は両脇と中央の3室に間仕切る。屋根前面に唐破風(からはふ)の向拝(ごはい)を設け、その上に千鳥破風(ちどりはふ)を載せる。本殿間口に揃えて拝殿と繋ぐ部分が幣殿となる。床高は拝殿と同じで、内外の意匠、構成も拝殿に準じている。特色となる彩色は、本殿では、柱、壁、縁板などは黒漆塗、軒廻と縁の下は朱漆塗、長押より上は極彩色で紋様を描く。拝殿、幣殿の外回りは向拝唐破風の妻飾、中備を極彩色とする以外は丹塗、内部は軸部をベンガラ朱漆塗、小壁には花鳥を描き、組物に彩色を施す。柱は本殿と拝殿の向拝以外は丸柱である。社殿を囲む透塀は、腰を板張とし上半部に竪格子を入れる一般的な透塀の形式である。
神供所は、入母屋造の建物で、内外ともに素木(しらき)を原則とし、柱は角柱、内部は3室に間仕切、西端の室は土間、東側2室は畳敷とし、東端の室は床を一段上げる。開口部は少なく、その他の殿舎に比べて装飾や彩色が少ない住宅風の簡素な建物である。
同じ岡崎にある六所神社と伊賀八幡宮は、徳川家光の指示による造営時期、遠州大工である鈴木近江守長次による点で同じで、形態も類似している。一方で幣殿と本殿を貫で緊結している六所神社は構造的により整理された構成で、向拝の破風や妻飾りなど意匠的な相違点もある。遠州大工の意匠的な傾向を示す建築としてともに重要な存在といえる。(溝口正人)

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