伊賀八幡宮 本殿、幣殿、拝殿 (附 宮殿1基/棟札4枚)/透塀/随身門/御供所/神橋/鳥居

分類国指定
種別建造物
所在地岡崎市伊賀町
所有者伊賀八幡宮
指定年月日S8.1.23
時代江戸前期 寛永13年
詳細解説伊賀八幡宮の創立は文明年間(1469~86)に遡るという。以後、松平家代々の信仰をうけ、徳川家康も慶長16年(1611)に社殿の造営を行ったことが現存する棟札に示される。その後、寛永11年(1634)に上洛した徳川家光は、道中、徳川家ゆかりの神社として社殿の改築を命じ、同13年に完成した。現存する社殿は、この造営によるもので、遠州大工である鈴木近江守長次による。本殿・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)、透塀(すかしべい)、御供所(ごくしょ)、随身門(ずいしんもん)、神橋、鳥居が重要文化財に指定されている。なお鐘楼も、明治の神仏分離により吉良町吉田の西福寺に移築され現存する(県指定文化財)。
社地は南を正面とする。境内正面にたつ鳥居は、石造の明神鳥居で、その北、矩形の放生池の中央に架かる神橋は、石造の反橋で木造建築と同様な装飾が精緻に施される。放生池正面の随身門は、入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)、典型的な和様の楼門の構成で、上重屋根前後に唐破風(からはふ)を付ける点、垂木を吹き寄せとする点が意匠的な特徴となっている。柱はすべて円柱、両脇間には随身を配す。上層の唐破風や建具などは黒漆塗で、軸部は丹塗、その他には鮮やかな彩色を施す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿が一体となった複合社殿の形式をとる。本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、棟には千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)を置く。内部は前後に間仕切り内陣と外陣(げじん)に分ける。内外陣とも畳敷、内陣は3室に仕切り、中央室に附指定となっている宮殿(厨子)を納める。拝殿は入母屋造の建物で前面を吹き放ちとし、内部は両脇と中央の3室に間仕切る。屋根前面に向拝(ごはい)を設け、その上に腰折れの据破風(すえはふ)をのせる点が特異な意匠である。本殿間口に揃えて拝殿と繋ぐ部分が幣殿となる。幣殿は床高は拝殿と同じで、内外の意匠、構成も拝殿に準じている。彩色が意匠上の特徴で、本殿では、柱、壁、縁板などは黒漆塗、縁の下は丹塗、長押より上は極彩色で紋様を描く。拝殿、幣殿の外回りは破風の妻飾、組物を極彩色とする以外は丹塗、内部は長押より上は黒漆塗、壁上部に花鳥を描き、組物に彩色を施すなど彩色は華麗である。なお、本殿と幣殿の取り付き部分にみられる改造の痕跡から、本殿は慶長16年(1611)に家康によって造営されたもので、幣殿・拝殿が寛永の造営による可能性が指摘されている。社殿を囲む透塀は、腰を板張とし内法に竪格子を入れる一般的な透塀の形式である。
御供所は、入母屋造の建物で、内外ともに素木を原則とし、柱は角柱、内部は3室に間仕切り、南端の室は土間、北側2室は畳敷きとする。開口部は少なく、その他の殿舎に比べて装飾や彩色が少ない住宅風の簡素な建物である。
同じ岡崎市にある伊賀八幡宮と六所(ろくしょ)神社は、徳川家光の指示による造営時期、遠州大工である鈴木近江守長次による点で同じで、形態も類似している。一方で本殿と幣殿の取付方では異なっていて、棟には千木・勝男木を置く点、向拝の破風や妻飾り、彩色など意匠的な相違点もある。遠州大工の意匠的な傾向を示す建築としてともに重要な存在といえる。(溝口正人)

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