名古屋城 西南隅櫓/東南隅櫓 附 板札1枚/西北隅櫓/表二の門

分類国指定
種別建造物
所在地名古屋市中区本丸
所有者名古屋市
指定年月日S5.12.11
時代桃山 慶長17年頃
詳細解説徳川義利(後の義直)尾張転封に伴い、慶長14年(1609)に清須からの居城の移転が決定され名古屋城は建設された。城郭の堀や石垣は西国大名によるいわゆる天下普請によって慶長15年に完成した。天守や御殿を初めとする建築工事は幕府自身によるもので、天守が慶長17年末に完成したが、建物の中には完成が元和年間に下るものもある。元和2年(1616)に義直は駿府より移って本丸御殿を居所としたが、翌3年に藩庁も置かれた二之丸御殿が完成するとここに移り、本丸御殿は将軍の御成御殿とされている。二之丸御殿は近代に入り撤去されたが、本丸は離宮とされたこともあって戦前までよく旧状を保っていた。しかし御殿や天守など中核が第二次世界大戦の空襲で焼失した。建造物としては本丸・二之丸・御深井丸に隅櫓と門が残り、重要文化財に指定されている。
西南隅櫓は、古くは未申(ひつじさる)隅櫓と呼ばれ、本丸の隅櫓は天守と同時期の慶長17年頃の完成とみられている。もとは東と北に多聞櫓(たもんやぐら)が付属していたが近代に撤去されている。外観2重、内部3階建、塗籠造(ぬりごめづくり)、本瓦葺、屋根の棟を南北に向ける。下層の屋根には南面に切妻破風(きりつまはふ)と唐破風(からはふ)、西面に入母屋破風(いりもやはふ)を付け、両破風の軒下に石落としを設ける。濃尾地震で甚大な被害を受けたこともあって復旧や解体修理を経て構造材には新材も多いが、規模や形態は建造当初に復原されている。
東南隅櫓は、古くは辰巳(たつみ)櫓と呼ばれ、西南隅櫓と同様に両脇には多聞櫓が附属していたが近代に撤去されている。西南隅櫓と同規模で外観も同様であるが、唐破風を下層ではなく上層屋根の東面に付ける点が意匠上の相違となっている。半解体修理の際に発見された墨書により、宝永7年(1710)に修理がなされ瓦の葺替も行われたらしい。なお屋根大棟の鯱は明治43(1910)年に東京城(江戸城)から移したものとされる。
西北隅櫓は、御深井丸(おふけまる)の西北隅に建つ外観3重、内部3階建、塗籠造、本瓦葺の櫓で、清洲櫓とも呼ばれている。初層の屋根には、北面と西面に入母屋破風を付けて破風軒下に石落を設け、東面と南面には千鳥破風(ちどりはふ)を付ける。解体修理の結果、柱を中心に転用材が多く認められた。高欄を伴う櫓状の建築の部材を再用したものらしく、清洲城の小天守を移築したものとの伝承も、否定すべきものではないことが明らかとなった。解体修理の際に発見された墨書により、本丸からはやや遅れて元和5年(1619)の完成と判明した。三重櫓の中でも熊本城宇土櫓(うとやぐら)(国重文)に次ぐ規模の建築として貴重である。
表にの門は、本丸大手となる南正門にあたる。戦災焼失した櫓門形式の表一の門がかつて内側に建っていた。1間1戸、本瓦葺の高麗門形式で、柱や扉には鉄板を打ち付けた堅牢な造りであり、両脇には同じ高さで土塀が取り付く。貫に元和5年の墨書があり、建造年代は天守からやや遅れるものらしい。(溝口正人)

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