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鶴舞公園

分類国登録
種別名勝地関係
所在地名古屋市昭和区鶴舞、中区千代田
所有者名古屋市
指定年月日H21.7.23
時代明治42年
指定理由明治の欧化思想の影響を受け、整形式の洋風庭園と回遊式の日本庭園を併せ持った名古屋市初の総合公園。明治43年の第10回関西府県連合共進会の会場として利用され、その後も大都市名古屋の中央公園として発展しながら、当時の様式や施設の多くを今に伝えており、造園史上の意義が深い。
詳細解説鶴舞公園は、明治42年、当時の名古屋市街地の東部田園地を埋め立てて設置された名古屋市初の市立公園である。公園設置については、明治17年に名古屋区長が愛知県令に設置の要望をしていたところ、明治38年に始まった精進川(現新堀川)改修工事に伴う残土処理や関西府県連合共進会の開催地選定の問題を契機に計画が進んだ。その後、明治39年12月に公園設置計画について名古屋市会で議決され土地買収に入り、翌明治40年より造成工事が始まり、明治42年11月19日に開園した。
こうして開園した鶴舞公園を使い、第10回関西府県連合共進会が開催されることになり、仮設のパビリオンと恒久施設として、古代ローマ様式の大理石柱と岩組みを用いた噴水塔や丸屋根を8組の古典様式の柱で支えるルネサンス式の奏楽堂が造られた。これらの施設は、名古屋開府三百年記念会の寄付で、東海の巨匠建築家・鈴木禎次が設計を担当した。共進会の会期は、明治43年3月から6月の90日間で、延べ260万人の入場者を数えた。
共進会閉幕後には、公園敷地北部を県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)と病院用地として割譲することになり、公園計画に大変動をきたした。このため、再整備されることになり、日比谷公園を設計した本多静六を設計顧問に迎え、全体設計を建築家・名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次が担当し、9ヶ年計画で整備された。公園西側の入り口から噴水塔、奏楽堂の線を軸線とし、周囲に洋風庭園を配する。南側に大運動場、北側と東側に日本庭園を配する。日本庭園は、龍ケ池、胡蝶ケ池を利用する池泉回遊式で、村瀬、松尾両宗匠の手になる。以後、市民に親しまれる一大公園となった。
大正に入ると市立動物園、市立名古屋図書館の設置が、昭和に入ると普通選挙法を記念した野外劇壇の普選壇、昭和天皇御成婚を記念した公会堂の建設がなされ、文化・教育的要素等が加わり更に充実した名古屋の中央公園として発展していく。その後、動物園の東山公園への移設や第二次世界大戦による戦災を受けたが、現在も当時の施設、構成、地割の多くが残されている。園内には、桜を始め四季折々の草花が咲き乱れるほか、公園造成以前から自生すると思われるアカメヤナギや共進会終了後の整備時に植樹されたといわれるセコイアメスギの大樹なども随所にみられ、常に多くの市民が訪れる憩いの場として賑わっている。

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