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棚橋家住宅主屋

分類国登録
種別建造物
所在地名古屋市緑区有松町
所有者個人
指定年月日H21.4.28
時代明治
指定理由旧東海道に北面する町家。桁行16m梁間8.5m、木造つし2階建、切妻造桟瓦葺で、下屋庇を付け、後方に台所を張り出す。1階に出格子を設け、2階は軒を出桁造とし、一間ごとに格子窓を並べ、漆喰で塗り込める。風格のある外観で、有松の町並みの中核をなす。
詳細解説棚橋家住宅は、間口の広い大店(おおだな)が続き重厚な町並みを形成する有松において、その由来にふさわしい規模と構成を今日に伝える遺構であり、町並みを構成する重要な景観要素となっている。建物は、有松を代表する絞り問屋服部家住宅の遺構である。服部家は、慶長13年(1608)の有松開村の際、知多郡阿久比村から移住した家系で、屋号は「井桁(いげた)屋」である。寛政年間(1789~1801)に東海道の北側に分家した服部孫兵衛家(県指定文化財建造物)も同様の屋号としたので、本家は「大井桁(おおいげた)」と呼ばれた。
大井桁服部家と棚橋家との関係は、昭和7年(1932)、棚橋龍三氏が名古屋医科大学(現、名古屋大学医学部)の医局より派遣されて有松で開業することになり、翌年、空き家となっていた大井桁服部家の建物で開業したことに始まる。昭和25年(1950)、棚橋家は服部家から屋敷地を購入、龍三氏逝去後の昭和63年(1988)に医院は有松駅北へ移転したが、建物は旧状を維持している。
建物は、過去の調査によれば江戸時代の遺構とされてきたが、登録文化財申請の調査により、「明治八年五月吉日」の地鎮、定礎を記した棟札が確認され、建設年代が明らかになった。また、同じ有松に所在する中濱家住宅(国登録文化財)のような小屋梁を水平に架け、たちの高い断面構成を示す建物の年代観を裏付けることとなり、有松の町家の建設年代を考えるうえで基準となる建物である。
主屋は、東海道に北面して建ち、ツシ2階建、桟瓦葺、平入の町家である。前面2階は、塗籠で格子窓と壁を交互に配する構成、1階は東半部を土庇としている。また、側面妻壁は塗籠としている。『尾張名所図会』に描かれている有松の竹田家も同様な構成であり、有松の大店の構成を今に伝えている。平面は東土間3列8室の構成で、6尺1間の中京間である。建物前面のミセ廻りの内部は、医院時代、また以後の住宅としての改変があり、診療室として使用するために天井は大引きを撤去して高く張り直しているが、下地には旧状を残している。座敷は旧状を維持しており、座敷南縁の開口を大きく開ける構造が特徴的である。2階はツシ2階の形状で、物置となっている。小屋組は和小屋で前面の梁は登梁状に湾曲した材を架けている。

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