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03-02-02. 昔ばなしの広場「物見塚」

資料ID132
名前(漢字)ムカシバナシ ノ ヒロバ「モノミ ヅカ」
名前(英語)Monomizuka(mound), a square for the folklore
テーマみどりの散歩道コース
コース03.西郷山・目黒川コース
コンテンツ02.目切坂と鎌倉みち
資料紹介渋谷金王丸(コンノウマル)はまるまる太った元気な子でした。力もちで軍ごっこではその謀略抜群(ボウリャク バツグン)で、負けた事がありません。金王丸は強い大将のもとにお仕えしたいとずっと思っていました。
金王丸は十二歳ぐらいになって、源義朝(ミナモト ノ ヨシトモ)に仕えたいと思い両親に別れをつげ五、六人の若者といっしょに家を出ました。台地のはしに二つの塚がありました。そこは富士山の雄大な姿が四季おりおりの色と姿を見せてくれるし、敵軍団の動きもわかるというので、北から来る武士たちはここで物見をし、旅人は一服し景色にみとれました。人々はこの塚を物見塚と呼んでました。
義朝(ヨシトモ)は頼朝(ヨリトモ)や義経(ヨシツネ)のおとうさんで、当時最も勢力のあった平清盛に対抗できるただ一人の源氏の頭領でした。義朝はそのころ鎌倉の邸に住んでましたので、金王丸は、物見塚から鎌倉古道を下って多摩川をこえて鎌倉に行くことにしました。
「物見をしよう」
「いい天気だ。富士山がおれたちを守ってくれそうだ」
「敵の軍団は見えるか」
「前方なし」「右方もなし」
「金王丸の旗を母者(ハハジャ)が作ってくれた。これを先頭に行くぞ」
「オーウッ」
六人は別所坂をかけおり、窪田坂(クボタ ザカ)へと進んで行きました。
金王丸はこうして義朝に仕えるようになりました。勇気があって気転がきくので義朝に愛され常にそばに仕えていたそうです。ところが、義朝は京で戦いに敗れ、東国へ逃げてくる途中、よりによって家臣に殺されてしまいます。金王丸が義朝の湯上りの帷子(読み:カタビラ)(今でいうゆかた)を取りに行っている間の出来事でした。金王丸は主人を裏切った家臣を斬(キ)りはらうと、すぐさま義朝の妻常磐(トキワ)に事の次第をしらせるため京都にかけのぼったといいます。これは江戸のころの伝統芸能で有名なお話です。
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コース紹介https://jmapps.ne.jp/9093/det.html?data_id=122
コンテンツ紹介https://jmapps.ne.jp/9093/det.html?data_id=130
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