略歴・解説
中巨摩郡百田村(現白根町)に生まれる。小学校卒業後独学で絵を学ぶ。18歳の時上京。はじめ日本画を志すがすぐに洋画に転向し、一時印刷所の図案工として職に就く。農業のかたわら制作を続け、昭和11年中込忠三によって画才が見出され、里見勝蔵に会って以降本格的な画業を展開するようになる。中込忠三のもとで生活しながら《狂人》、《早稲田の時計台》、《鶴見工場風景》、《ガスタンク》などを描く。昭和13年郷里に戻り第2回山梨美術協会展に上京中の作品《煉瓦の家》、《ニコライ堂》を出品して知事賞を受賞するが、その6ヵ月後に病没。享年28。 没後銀座の資生堂において遺作店が開催された。その個展評として、美術史学者児島喜久雄が「本当の画狂」という一文を朝日新聞に載せている。 手塚は安部知二の小説「野の人」、「幸福」の二篇のモデルとなっている。