臼杵御城御城下共々之図

整理番号16
大分類絵図
中分類臼杵藩関連
刊行年代元禄10年(1697年)~正徳(1717年)頃
法量(タテ)219.00
法量(ヨコ)232.00
摘要 臼杵城下町の絵図です。年代は、八幡山下の新道(現在の畳屋町)、光蓮寺の位置(元禄2年まで横町→大火を機に現在地へ)等の記載などから、年代を推定しています。宝永4年(1707年)の大地震後、仁王座村の台地上に津波の襲来を知らせる太鼓が配置されたという記述がありますが、その鼓楼などの記載がないことからすれば、宝永4年より前の景観を描いた絵図かもしれません。

 絵図中央の仁王座村には「時鐘」の記載があり、稲葉家譜などの他の史料に見られる時間を知らせる装置がこの台地の上に配置されていたことがわかります。稲葉家譜によると、この台地(原山)には「漏刻」(水時計)があり、其れによって時を計っていたといわれています。

 寛永臼杵城下絵図(整理番号9番)などと比較すると、「御城下」として扱われている範囲が大幅に広がりを見せていることがわかります。特に、臼杵川を渡った先の市浜地区は、整理番号15番の臼杵城下絵図(展示室2の原寸大床パネルで展示中)には描かれておらず、元禄年間からそう遠くない時期に「城下」の扱いを受けるようになったとみられます。

 しかし、臼杵藩としてはっきり城下町を設定する触などは出ておらず、政策や諸々の課題に応じて臨機応変に「城下」を設定していたともいえるようです。こうした「城下」の範囲が明確でない城下というのは珍しいことではありません。江戸幕府将軍のお膝元ですら、「江戸」の範囲は明確に設定されることは19世紀に入るまではなく、その後も課題等によって江戸町奉行の管轄か、近隣の代官・領主の管轄かが決められていました。

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