中山家文書 市史No9 大比田浦指出帳

資料名(よみ)ナカヤマケモンジョ シシナンバーク オオヒダウラサシダシチョウ
時代寛永11年
世紀1634
素材紙本墨書
解説『敦賀市史史料編第4巻上』745頁より「中山正彌文書」解説(抜粋)
 中山氏はもと今井氏を称し、中世には比田浦の刀祢であった。由緒書によれば、慶長4(1599)年七郎左衛門直忠の子が早世したため、中山次左衛門直治が入聟し、これ以降中山氏を称することとなった。中山直治は、越中朝日城主であり、佐々成政に属したが、成政没落後浪人して越前坂井郡和布浦に住し、慶長6年頃、南条郡大谷浦の向山次郎右衛門の仲介で、比田浦の今井家に入った。中山氏は、近世初頭には「郡中惣庄屋」と大比田浦の庄屋とを兼帯したが、寛永末年に惣庄屋を免じられた。天和2(1682)年鞠山藩の成立にともない代官に任ぜられ、さらに宝暦9(1759)年鞠山役所による直接支配が始まると大庄屋の一人となっている。
 大比田浦は、中世には元比田浦と合せて比田浦と呼ばれていた。大比田と元比田との二つの浦に分れた年代は確定できないが、少なくとも慶長3年には分かれている。なお慶長11年頃の越前国絵図には、比田浦と記されている。
受入年度平成2年 
所蔵館敦賀市立博物館
大分類歴史
中分類古文書
小分類敦賀
資料No.0090

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