奇峭幽亭図
作者 | 田能村直入 TANOMURA, Chokunyu 1814 1907 |
---|---|
作家名(読み) | たのむら ちょくにゅう |
制作年 | 1885年(明治18) |
技法・材質 | 絖本着色 |
員数・形状 | 軸 |
寸法 | 136.0×40.0cm |
作品番号 | 003015 |
ジャンル分類1 | 美術 |
ジャンル分類2 | 日本画 |
作者 | 田能村直入 TANOMURA, Chokunyu 1814 1907 |
---|---|
作家名(読み) | たのむら ちょくにゅう |
制作年 | 1885年(明治18) |
技法・材質 | 絖本着色 |
員数・形状 | 軸 |
寸法 | 136.0×40.0cm |
作品番号 | 003015 |
ジャンル分類1 | 美術 |
ジャンル分類2 | 日本画 |
作家名(ヨミ) | たのむら ちょくにゅう |
---|---|
作家名(英語) | TANOMURA, Chokunyu |
生年 | 1814 |
生年(和暦) | 文化11 |
没年 | 1907 |
没年(和暦) | 明治40 |
略歴・解説 | 豊後国直入郡竹田村(現・大分県竹田市)岡藩に生まれる。幼名ははじめ松太、後に傳太。諱ははじめ蓼、のちに痴。字ははじめ虚紅、後に顧絶。号ははじめ小虎、後に直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。1822年(文政5)、9歳で竹田の画塾に入り、竹田の養継子になる。漢詩を広瀬旭荘に習い、茶道や香道、剣道も身につける。1834年(天保5)、竹田に伴って大阪に行き大塩平八郎から陽明学を教授された。1835年(天保6)に竹田が亡くなると、その後堺に居を構える。1860年(万延元)高麗橋に引っ越した。煎茶の普及に尽力して1862年(文久2)に淀川で「青湾茶会」を主催。1880年(明治13)、京都府画学校校長に就任。1896年(明治23)富岡鉄斎らと日本南画協会を設立した。 |