略歴・解説 | 船場で織物商(現・三露産業)を営む三露久兵衛の一人娘として滋賀県に生まれる。本名はたミ、通称民子。早く生母を亡くすが、裁縫・盆石・華道・茶道・長唄・三味線など数多くの稽古事に精励して育つ。21歳で光安幾太郎(のちの二代目久兵衛を襲名)を婿に迎え、三男二女の母となる一方で、邦楽などの趣味をさらに深めた。大正中期以降は船場の庭山耕園の画塾で花鳥画を学び、昌園と号する。木谷千種の八千草会では長女・花子(千鈴)、次女・フサ(貞園|のちに洋画家の佐藤房)とともに女性画を学び、千萩と号する。1926年(昭和元)の長女千鈴の没後、木谷千種と交流を保ちつつ、日本画制作は次第に女性画から花鳥画に重点を移し、三露昌園として大阪三越で開催された庭山耕園社中展で制作発表を行った。典型的な船場商人の家付き娘で「御寮人さん」だが、家業は夫に任せ、自身は子育ての傍ら多くの趣味に勤しんだ。1935年(昭和10)に制作した《座る女》はカンザス大学に収蔵されている。
【主な出品歴】
1922年、第3回女流展に《秋雨》《文楽座にて》、同4回展《京の舞妓》《妹背山の雛鳥》
1926年、第1回八千草会展に《お柳》、同2回展《牡丹花》、3回展《舞妓》、4回展《自像》
1926年、革新第4回日本画会展に《お柳》
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