略歴・解説 | スイスを代表するグラフィックデザイナー、タイポグラファー。チューリッヒ大学、チューリッヒ芸術大学に学び、1936年(昭和11)チューリッヒにデザイン・スタジオを作る。タイポグラフィーを使用したグラフィックデザインにおける「グリッド・システム」を確立、国内外に大きな影響を与えた。
1957年(昭和32)チューリッヒ工芸学校のグラフィック・クラスの指導者として招聘(1960年まで)。同時期にスイス・デザインの規範となっていく『ノイエ・グラフィーク(Neue Grafik, 1958–68)』創刊。1960年(昭和35)東京を会場として開催された「世界デザイン会議」に招聘。1961年(昭和36)浪速短期大学(現・大阪大学芸術大学短期大学部)と日本デザイン・スクールの招きで再び来日し、特別講義を行う。
1965年(昭和40)チューリッヒ近郊の古い城下町ラムハースヴィルに構成主義者のための画廊「構成主義的でコンクレート的な芸術」の助成のための画廊(当初「ガレリー58」という名称だったが、1974(昭和49)年に「ガレリー・ゼーシュトラーセ」と改称し、1990年(平成2)まで活動を続けた。)を創設し、展覧会活動と版画制作、出版活動を行った。
大阪芸術大学客員教授も務め、同大学に彫刻作品《黄金分割による7つの部分をもつ柱》(塚本英世記念館・芸術情報センター1階エントランス・ホール、1974年)がある。
妻はウルム造形大学に留学した日本人で画家の吉川静子(1934–2019)。
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