略歴・解説 | 近代大阪を代表する南画家の一人。現在の愛媛県今治市に生まれる。名は一智、字は子明、迂叟、橋村と号す。はじめ今治の鈴木松堂に師事。17歳で大阪へ出て陸軍造兵廠に勤務するが、作業中の事故で左手首を切断。1909年(明治42)より永松春洋に南画を学ぶ。1913年(大正2)、第7回文展に出品した《湖山清暁》が褒状。以後2年連続で褒状。1914年(大正3)、大正美術会の結成に参加する。1918年(大正7)、大阪茶話会に参加し、翌年には直木三十五、福岡青嵐と主潮社を結成して展覧会を開催。
1921年(大正10)には日本南画院の設立に参加し同人となる。1924年(大正13)には天王寺に私設の大阪美術学校を創設し校長となる(後に枚方へ移転)。1928年(昭和3)、第9回帝展にて《暮色蒼々》が特選となり、1930年(昭和5)からは審査員も務めた。1939年(昭和14)、枚方火薬庫の爆発により美術学校の校舎が壊れ閉鎖となり、豊中に移住。1960年(昭和35)の日本南画院再興に際しては副会長として参加し、のち会長となった。1950年(昭和25)大阪府芸術賞、1959年(昭和34)大阪市民文化賞、1961年(昭和36)《錦楓》(新日展出品)により日本芸術院賞を受賞した。
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