山田 方谷

作家情報名(ヨミ)やまだ ほうこく
作家情報名(英語)YAMADA Hokoku
生年月日(西暦)1805/**/**
生年月日(和暦)文化2年
没年月日(西暦)1877/**/**
没年月日(和暦)明治10年

略歴・解説

備中国阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれた。幕末・明治時代期の儒者で、備中松山藩士。名は球、字は琳卿、通称は安五郎、方谷と号した。文政10(1827)年に上洛し、寺島白鹿に儒を学んだのち、帰藩して藩校有終館会頭に任じるも、天保3(1832)年に、江戸に出て佐藤一斎に師事し、佐久間象山らと交わった。天保7(1836)年に、再び帰藩し、翌年には、有終館学頭を務めるかたわら、塾を開いて子弟に教授した。また、備中松山藩主板倉勝静に重用され、藩の要職を歴任。藩政改革を行い、巨額の負債を償却して財政危機を脱するなど、大きな業績を残した。その改革は、諸藩にも知れ、越後の長岡藩(現新潟県長岡市)の河井継之助をはじめ、方谷に学ぶ者は全国に及んだという。明治元(1868)年には、松山城を無血開城して、主君や領民の安全を守ったことでも知られる。方谷の、陽明学を主とし程朱をも採り入れた経世の実学は、高く評価され、同6(1873)年備前岡山の閑谷学校再興時には、召されて講学。多年にわたり教育にも尽力してきたが、同9(1876)年病に罹り、翌6月26日小坂部(岡山県新見市)にて没した。

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