長谷川 等伯

作家情報名(ヨミ)はせがわ とうはく
作家情報名(英語)HASEGAWA Tohaku
国籍日本
生年月日(西暦)1539/**/**
生年月日(和暦)天文8年
没年月日(西暦)1610/**/**
没年月日(和暦)慶長15年

略歴・解説

桃山時代の画家。30代半ば頃までは信春と号した。能登七尾(石川県七尾市)に生まれ、染物屋を営む長谷川宗清の養子となる。やがて家業は継がずに仏画を中心とした絵師として立身するが、画ははじめこの養父に学んだと思われる。元亀2(1571)年頃京都に移住し、本法寺に親しく出入りをした。また、千利休とも交際し、大徳寺と親しい交渉をもったようである。上洛直後は狩野派の傘下で活動していたとみられるが、やがて離脱し、独立した一門を形成した。現存作品には牧谿の影響がみられるほか、等伯の言葉が書き留められた『等伯画説』においては等春や養父の宗清を経て自らを雪舟の画系に連ねる意識が窺え、実際60代より作品に「雪舟五代」と款記している。慶長9(1604)年、66歳には法橋に叙せられ、翌年法眼を賜った。慶長15(1610)年、徳川家康の招きに応じて江戸に下るも、到着二日目に客死し、遺骨は本法寺に葬られた。

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