略歴・解説 | 拙宗等揚とは、岡山県出身で室町水墨画を大成したとされる雪舟等楊(1420-1506)が48歳で中国大陸へ渡る直前まで使用していた名乗りと考えられる。彼は中国元代の高僧楚石梵琦が書いた「雪舟」の二大字を入手し、龍崗真圭に依頼してその字義を記してもらって改号したのである。拙宗時代の作品は尊敬する如拙や師である周文の画風の影響下にあるが、京都の禅林で描かれていたような瀟洒で洗練されたものとはいえず、それがために彼は都を去って山口に赴くことになったので拙宗等揚とは、雪舟等楊(1420-1506?)の30代後半頃までの名乗り。この二人が同一人物であるとする説は、ほぼ定説となっている。近年、この改号が長禄元(1457)年頃になされたことが明らかとなった。拙宗は、中国・元時代の高僧である楚石梵琦が書いた「雪舟」の二大字を得て自ら号したらしく、龍崗真圭が依頼されて字説を記している。龍崗は、「雪」は純浄不塵なる心の状態、「舟」は恒動亦静なる心の働きであると説き、それらを得た雪舟の画を「心画」であると述べる。拙宗時代の作品には、のちの雪舟作品に共通するモチーフや筆法がみられるが、いまだ穏やかで柔らかい表現であり、如拙や周文の影響が指摘されている。 |