(資料群)因藤家 資料

資料群・作家名(ヨミ)いんどうけしりょう

略歴・解説

「日本農民組合佛生山支部」と両面に書かれているが、筆跡は異なっている。行書体の方が、文字の退色が著しい。どちらが先に書かれたものなのか、なぜ両面に書かれているかという点は不明である。上部中央には、四角い穴が開けられており、建物の入口に掲げられていた看板であることがわかる。
戦前の香川県は、狭い耕地に巨大地主がひしめく全国有数の地主地帯であった。その特徴は、すでに明治時代前期からみられたが、大正時代後期にはさらに零細な小作農が増加し、小作料の引き下げや耕作権の確立をめぐって小作争議が急増した。大正11年(1922)、日本農民組合が結成されると、香川県にも支部が作られ、小作争議にも積極的に関与していった。大正14年には、日本農民組合香川県連合会は、支部数・組合員数ともに、全国最大の組織率をほこった。
日農の機関紙「土地と自由」には、仏生山支部の記載は見られず、具体的な活動等については不明であるが、日農香川県連が大正15年に調査した「日農支部分布状況」(農民運動史研究会編『香川農民運動史の構造的研究』所収)の支部未設置町村名の欄に、仏生山町の記載がないことから、その時点では、支部が存在していたと考えられる。
香川県の農民運動は、昭和3年(1928)に行われた普通選挙による初めての衆議院議員選挙の後、激しい弾圧を受けて壊滅状態となり、その後再建されることはなかった。
香川県の近代史を特徴づける事象であるにもかかわらず、農民運動の盛衰を伝える資料は、県内にあまり残っていない。その点でも本資料は、貴重なものと言える。
(香川県歴史博物館『収蔵資料目録 平成10年度』より、一部修正し転載)

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