(資料群)長田家 資料

資料群・作家名(ヨミ)ながたけしりょう

略歴・解説

昭和19年6月、政府は戦局の悪化にともない、迫り来る本土決戦に備え、後顧の憂いなくこれを貫徹するという目的で、全国の重要都市の一般国民および初等科児童の疎開を促進することを閣議決定した。同年7月には全国12都市を指定し、縁故先に個人的に疎開する学童を除く初等科3年以上6年以下の学童の集団疎開が行われた(翌昭和20年3月には3都市を追加し、初等科全員に対象を拡大する)。香川県には、昭和19年9月に大阪市下の国民学校の7800余名の学童が集団疎開してきた。当資料は長田氏が住職をつとめる三豊市豊中町本山寺に残されていた戦前の学校で使用された学童用の机で、備品ラベルから大阪市立南市岡国民学校のものであったことが分かる。昭和19年9月14日に本県への集団学童疎開の第1陣として三豊郡へやってきた1088名に、南市岡国民学校の関係者340名が含まれていた。第1陣であったこともあって、新聞報道でもその歓迎の様子などがよく取りあげられている。学童達は郡内の寺院などに分宿し、疎開生活を送った。当資料はその時に持ち込まれたものである。昭和20年8月に戦争が終わったが、集団疎開は翌21年の3月まで継続される計画であった。しかし、保護者からの要望が強くその年の10月か11月には大半の学童が引き揚げをした。本山寺の学童たちもこの頃には帰阪したと考えられる。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成9年度』より、一部修正し転載)

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